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シェフの肖像 (vol.14)

Le Gentil(ル・ジャンティ)
オーナーシェフ 熊谷文敏 氏

20歳で建設業界から料理界へとキャリア転向をした熊谷文敏シェフ(38歳)。日本で10年の修行を積んだのちに30歳で渡仏。他の料理人と比べると遅めのフランスでのキャリアスタートとなったが、2018年10月にはパリ7区のグルメ激戦区に「Le Gentil」をオープン。店の宣伝は特にしていないにも関わらず、瞬く間に満席続きの人気店へと育てあげた。
もともとは建設業の仕事をしていたんですが、食べることが好きだった僕に、親の口からふと出たひとことが料理の道へと導きました。ちょうど将来のことを考え始め、手に職をつけたいと思っていた僕にとっては魅力的な話でした。それで、親の知り合いが営む神戸のレストランで修行させてもらうことになったんです。皮むき、掃除、サービス担当から始まり、いよいよ実際に包丁を握れるかと思っていた2年経ったころ、レストランがつぶれてしまって。もう東京に帰りたいと思ったりもしたんですが、結局は、シェフの紹介でオープンして間もない神戸北野ホテルに入社しました。
そのとき23歳。厨房の現場というのは初めてだ。自分以外はすべて経験者で、半数ほどはフランス帰りの料理人たちだった。ひとつの厨房でホテル内の2つのレストランを裁いていたため、気が遠くなるほど仕事量は多く、とにかくハードな毎日だったという。
その時代がなければ今の僕はないし、今ここにもいない。だから今となっては感謝の気持ちでいっぱいですが、正直言って、その当時は大変すぎて苦痛でしたね。しかも周りと自分の力の差がありすぎる。だから僕は、いつも伊井野シェフの横にぴったりとついていました。少しでも間近で見て多くの技術を学び、早く皆に追いつこうと必死だったんです。そこに勤務させていただいている間、総支配人・総料理長を務める山口浩氏から声がかかり、山口氏の著書「フランス料理 軽さのテクニック」にも丸一年ほどかけて関わらせてもらいました。取材に同席するのも僕を指名してくださって、本当にいい経験ができたと思っています。この本は、今でも僕の教科書ですね。
そういってパラパラとめくりながら、愛おしそうに本を眺める熊谷シェフ。その様子からはさまざまな思いが伝わってきた。経験の少ない彼を本の制作に関わらせたことは、たゆまぬ努力を続ける姿を見ていた上司たちが熊谷シェフに絶大な信頼を置いていたことが伺われるエピソードだ。そして本が出版されると、温め続けてきた思いを実現するためにホテルを退職。それは、フランスへ行くことだった。フランス帰りの同僚たちの話を聞くうち、本場でフランス料理を学びたいと思うようになっていたのだという。
ホテルからフランスでの研修の話もいただいたんですが、短期間の研修だったので辞退しました。どうせいくなら長期間で、という気持ちがあったので。それでまずは東京の実家に戻り、資金稼ぎに励みました。稼ぎはよかったんですが、東京っておいしいものものがたくさんあるじゃないですか(笑)!それではりきって食べ歩きをしていたら、意外と十分な資金を貯めるのに時間がかかってしまって、渡仏したのは約2年後、30歳のときでした。

こうして2011年にフランスへ渡った熊谷シェフ。もともとは学生ビザだったが、初めて勤務したパリ18区の「ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット」で一年後には労働許可証を取得してもらえた。そして3年後には「シャマレ」へ。いずれも厨房のスタッフは日本人が多く、オーナーやサービス担当のフランス人たちも日本語訛りのフランス語に慣れていて、当初に心配していた言葉の壁で苦労することはあまりなかったという。
僕はたまたまラッキーだったのかもしれませんが、勤務時間もさほど長くなく、バカンスも好きなときに取れて、日本にいたときに比べるとパラダイスのようでした。逆に、このままでは自分がダメになってしまうのではと心配するほどで(笑)。それで少し環境を変えようと退職。それと同時に結婚し、新婚旅行で訪れた「ルレ・ベルナール・ロワゾー」に履歴書を持って食事に訪れ、働かせてほしいと直談判しました。実はここ、僕がお世話になった神戸北野ホテルの総支配人・料理長の山口氏が師事していた、(故)ベルナール・ロワゾー氏のレストランなんです。今はここは空きがないと断られましたが、系列店であるボーヌの「ロワゾー・デ・ヴィーニュ」なら空きがあるということで、奥さんにパリを離れるための手続きなどをすべて任せ、一週間後にはもう、僕は単身でボーヌにいました。
田舎なので人々は穏やかで優しく、ディレクターやシェフともプライベートでも家族ぐるみで仲良くしてもらっていたという。2年後にはスーシェフを任されるようになり、第一子も誕生し、公私ともに順調だった。ただ、パリで自分の店を持つという夢を持ちつつも、田舎のゆっくりした生活が心地よく、なかなか本気で動き出せずにいた。

スーシェフになってからは、フランス語で指示を出し、チームをまとめ、指導や味見、人の足りないポジションのサポートなど多忙でした。しかもボーヌからパリまで物件探しに行くにも遠くて大変で、完全に腰が重くなっていて。ようやく目ぼしい物件を見つけてパリに引っ越したのは、2017年に入ってからです。ボーヌに来て3年が経過していました。
ボーヌの仲間たちに引き止められながらもパリへ。一月末に物件を購入し5月オープンの予定だったが、壁が腐敗している大きなトラブルがあり、工事に大幅な遅れが出た。結局、工事に費やした期間は約一年。その間、友人のレストランやカフェでアルバイトをし生活資金を稼いでいたという。こうして2018年10月、念願の「Le Gentil」のオープンに至った。
最初はハプニングだらけでした。EDF(電気会社)との契約ミスで、最初の2ヶ月間は業務用オーブンと食洗機が使えなくて、家庭用オーブンで調理したり食器を手洗いしたりで四苦八苦しましたし、一週目は夜だけの営業でスタートしたんですが、初日の、親族や知人でにぎわった夜が嘘のように、2日目からは誰も来ない(笑)。甘いと言われそうですが、僕のイメージでは店を開けたらいっぱいになると思っていたんですよね。奥さんと2人、店にポツン。さすがにこれではいけないと、2週目からはランチ営業も始めました。ランチを始めて3日目くらいから埋まるようになってきて、今では常連が8割くらいです。一度来てくれた人が友人に宣伝してくれて、少しずつ増えてきて・・・本当にありがたいですよね。常連さんたちはとても親身で、テーブルの上に植物を置くことやライトの明るさなどもアドバイスをくれました。
レストラン修行時代から「Kuma」とフランス人たちに慕われ、お客さまたちからも愛されている熊谷シェフ。料理はさることながら、シェフと奥さまの人柄に魅せられて通う人たちもいるほどだ。半年たった今ではほぼ毎日が満席で、2回転することも珍しくない。今はまだ日々追われているだけ、と話してくれた。
常連さんも多いのでランチメニューは毎日変えているんですが、手が2つしかないため、どうしても効率性を考えたシンプルなものになってしまいます。作りたいものは山ほどあるので、今後に人を雇えることになったら、もっと手の込んだものも提供できるようになりたいですね。
熊谷シェフと、サービスを担当する奥さまの彩さんの二人三脚で営む「Le Gentil」(ル・ジャンティ)。店名は、彩さんの亡きお母さまのリクエストによるもの。実は、お母さまのお気に入りだった静岡の老舗レストラン(現在は閉店)の名前なのだそう。残念ながらお母さまはレストランオープンに立ち会うことは叶わなかったが、物件訪問、レストラン名と、お二人の夢の実現に向けてともに歩んだひとりだ。そのお母さまの思い、そして今もしばしば渡仏して応援してくれているお父さまの気持ちもつまったレストランだけに、お二人の思い入れも大きいことだろう。
温かい雰囲気の店にしたくて、木をたくさん使いました。フランクな感じで来てもらえるようにと、気軽に僕たちと会話ができるカウンターも作りました。ある日、「ここは私の食堂よ。」と言ってくれた常連さんがいて、僕たちが求めていたのはまさにそれだ、と非常にうれしかったですね。皆さんにそのような感じで来てもらえたら本望です。
そう言ってにっこり笑う熊谷シェフ。今後も、近所にあったら毎日でも通いたくなる温かいレストランであり続けてくれることだろう。さらなる進化も楽しみで、これからも目が離せそうにない。
取材: 内田ちはる

シェフの肖像 (vol.14)

Le Gentil(ル・ジャンティ)
オーナーシェフ 熊谷文敏 氏

20歳で建設業界から料理界へとキャリア転向をした熊谷文敏シェフ(38歳)。日本で10年の修行を積んだのちに30歳で渡仏。他の料理人と比べると遅めのフランスでのキャリアスタートとなったが、2018年10月にはパリ7区のグルメ激戦区に「Le Gentil」をオープン。店の宣伝は特にしていないにも関わらず、瞬く間に満席続きの人気店へと育てあげた。
もともとは建設業の仕事をしていたんですが、食べることが好きだった僕に、親の口からふと出たひとことが料理の道へと導きました。ちょうど将来のことを考え始め、手に職をつけたいと思っていた僕にとっては魅力的な話でした。それで、親の知り合いが営む神戸のレストランで修行させてもらうことになったんです。皮むき、掃除、サービス担当から始まり、いよいよ実際に包丁を握れるかと思っていた2年経ったころ、レストランがつぶれてしまって。もう東京に帰りたいと思ったりもしたんですが、結局は、シェフの紹介でオープンして間もない神戸北野ホテルに入社しました。
そのとき23歳。厨房の現場というのは初めてだ。自分以外はすべて経験者で、半数ほどはフランス帰りの料理人たちだった。ひとつの厨房でホテル内の2つのレストランを裁いていたため、気が遠くなるほど仕事量は多く、とにかくハードな毎日だったという。
その時代がなければ今の僕はないし、今ここにもいない。だから今となっては感謝の気持ちでいっぱいですが、正直言って、その当時は大変すぎて苦痛でしたね。しかも周りと自分の力の差がありすぎる。だから僕は、いつも伊井野シェフの横にぴったりとついていました。少しでも間近で見て多くの技術を学び、早く皆に追いつこうと必死だったんです。そこに勤務させていただいている間、総支配人・総料理長を務める山口浩氏から声がかかり、山口氏の著書「フランス料理 軽さのテクニック」にも丸一年ほどかけて関わらせてもらいました。取材に同席するのも僕を指名してくださって、本当にいい経験ができたと思っています。この本は、今でも僕の教科書ですね。
そういってパラパラとめくりながら、愛おしそうに本を眺める熊谷シェフ。その様子からはさまざまな思いが伝わってきた。経験の少ない彼を本の制作に関わらせたことは、たゆまぬ努力を続ける姿を見ていた上司たちが熊谷シェフに絶大な信頼を置いていたことが伺われるエピソードだ。そして本が出版されると、温め続けてきた思いを実現するためにホテルを退職。それは、フランスへ行くことだった。フランス帰りの同僚たちの話を聞くうち、本場でフランス料理を学びたいと思うようになっていたのだという。
ホテルからフランスでの研修の話もいただいたんですが、短期間の研修だったので辞退しました。どうせいくなら長期間で、という気持ちがあったので。それでまずは東京の実家に戻り、資金稼ぎに励みました。稼ぎはよかったんですが、東京っておいしいものものがたくさんあるじゃないですか(笑)!それではりきって食べ歩きをしていたら、意外と十分な資金を貯めるのに時間がかかってしまって、渡仏したのは約2年後、30歳のときでした。

こうして2011年にフランスへ渡った熊谷シェフ。もともとは学生ビザだったが、初めて勤務したパリ18区の「ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット」で一年後には労働許可証を取得してもらえた。そして3年後には「シャマレ」へ。いずれも厨房のスタッフは日本人が多く、オーナーやサービス担当のフランス人たちも日本語訛りのフランス語に慣れていて、当初に心配していた言葉の壁で苦労することはあまりなかったという。
僕はたまたまラッキーだったのかもしれませんが、勤務時間もさほど長くなく、バカンスも好きなときに取れて、日本にいたときに比べるとパラダイスのようでした。逆に、このままでは自分がダメになってしまうのではと心配するほどで(笑)。それで少し環境を変えようと退職。それと同時に結婚し、新婚旅行で訪れた「ルレ・ベルナール・ロワゾー」に履歴書を持って食事に訪れ、働かせてほしいと直談判しました。実はここ、僕がお世話になった神戸北野ホテルの総支配人・料理長の山口氏が師事していた、(故)ベルナール・ロワゾー氏のレストランなんです。今はここは空きがないと断られましたが、系列店であるボーヌの「ロワゾー・デ・ヴィーニュ」なら空きがあるということで、奥さんにパリを離れるための手続きなどをすべて任せ、一週間後にはもう、僕は単身でボーヌにいました。
田舎なので人々は穏やかで優しく、ディレクターやシェフともプライベートでも家族ぐるみで仲良くしてもらっていたという。2年後にはスーシェフを任されるようになり、第一子も誕生し、公私ともに順調だった。ただ、パリで自分の店を持つという夢を持ちつつも、田舎のゆっくりした生活が心地よく、なかなか本気で動き出せずにいた。

スーシェフになってからは、フランス語で指示を出し、チームをまとめ、指導や味見、人の足りないポジションのサポートなど多忙でした。しかもボーヌからパリまで物件探しに行くにも遠くて大変で、完全に腰が重くなっていて。ようやく目ぼしい物件を見つけてパリに引っ越したのは、2017年に入ってからです。ボーヌに来て3年が経過していました。
ボーヌの仲間たちに引き止められながらもパリへ。一月末に物件を購入し5月オープンの予定だったが、壁が腐敗している大きなトラブルがあり、工事に大幅な遅れが出た。結局、工事に費やした期間は約一年。その間、友人のレストランやカフェでアルバイトをし生活資金を稼いでいたという。こうして2018年10月、念願の「Le Gentil」のオープンに至った。
最初はハプニングだらけでした。EDF(電気会社)との契約ミスで、最初の2ヶ月間は業務用オーブンと食洗機が使えなくて、家庭用オーブンで調理したり食器を手洗いしたりで四苦八苦しましたし、一週目は夜だけの営業でスタートしたんですが、初日の、親族や知人でにぎわった夜が嘘のように、2日目からは誰も来ない(笑)。甘いと言われそうですが、僕のイメージでは店を開けたらいっぱいになると思っていたんですよね。奥さんと2人、店にポツン。さすがにこれではいけないと、2週目からはランチ営業も始めました。ランチを始めて3日目くらいから埋まるようになってきて、今では常連が8割くらいです。一度来てくれた人が友人に宣伝してくれて、少しずつ増えてきて・・・本当にありがたいですよね。常連さんたちはとても親身で、テーブルの上に植物を置くことやライトの明るさなどもアドバイスをくれました。
レストラン修行時代から「Kuma」とフランス人たちに慕われ、お客さまたちからも愛されている熊谷シェフ。料理はさることながら、シェフと奥さまの人柄に魅せられて通う人たちもいるほどだ。半年たった今ではほぼ毎日が満席で、2回転することも珍しくない。今はまだ日々追われているだけ、と話してくれた。
常連さんも多いのでランチメニューは毎日変えているんですが、手が2つしかないため、どうしても効率性を考えたシンプルなものになってしまいます。作りたいものは山ほどあるので、今後に人を雇えることになったら、もっと手の込んだものも提供できるようになりたいですね。
熊谷シェフと、サービスを担当する奥さまの彩さんの二人三脚で営む「Le Gentil」(ル・ジャンティ)。店名は、彩さんの亡きお母さまのリクエストによるもの。実は、お母さまのお気に入りだった静岡の老舗レストラン(現在は閉店)の名前なのだそう。残念ながらお母さまはレストランオープンに立ち会うことは叶わなかったが、物件訪問、レストラン名と、お二人の夢の実現に向けてともに歩んだひとりだ。そのお母さまの思い、そして今もしばしば渡仏して応援してくれているお父さまの気持ちもつまったレストランだけに、お二人の思い入れも大きいことだろう。
温かい雰囲気の店にしたくて、木をたくさん使いました。フランクな感じで来てもらえるようにと、気軽に僕たちと会話ができるカウンターも作りました。ある日、「ここは私の食堂よ。」と言ってくれた常連さんがいて、僕たちが求めていたのはまさにそれだ、と非常にうれしかったですね。皆さんにそのような感じで来てもらえたら本望です。
そう言ってにっこり笑う熊谷シェフ。今後も、近所にあったら毎日でも通いたくなる温かいレストランであり続けてくれることだろう。さらなる進化も楽しみで、これからも目が離せそうにない。
取材: 内田ちはる