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シェフの肖像 (vol.8)

L’Archeste(ラルケスト)
オーナーシェフ 伊藤 良明氏

オープンしてわずか5ヶ月という早さで2017年ミシュランの一つ星を獲得した「L’Archeste(ラルケスト)」の伊藤良明(41歳)。96年に東京の「ひらまつ」に入社、「ひらまつパリ」では10年間に渡りシェフを務める。合計18年に及ぶ会社員としての料理人キャリアにピリオドを打ち、「ラルケスト」オーナーシェフとして新たな冒険に繰り出して1年が過ぎたところだ。今パリで目の離せないシェフの一人である。
僕は母と妹の3人家族で、美容院を営んでいた母は忙しくしていました。土曜日、午前の授業が終わって帰宅しても母はまだ仕事中。頑張る母を見ていると「お腹空いた。」とは子供心にも言えず、自分でキッチンに立つようになったんです。妹も仕事を終えた母も「おいしい!」と笑顔で食べてくれ、それがうれしくて。実はそんなにおいしくなかったと思うんですけど(笑)。そのときの「おいしい」がこの道へ入るきっかけでした。食べた人に喜んでもらえるというのは、作る人にとっての一番の活力ですね。
高校卒業後に調理学校(エコール辻)へ入学。学校のコネクションを使えば就職に有利だろうという考えで入ったため、「学ぶには学校よりも現場」だと飲食店でのアルバイトに精を出した。「高校でも落ちこぼれ、調理学校でも出席日数ギリギリの、どうしようもない学生でした。」と笑う。卒業後は、学校の紹介で「ひらまつ」に入社することになる。伊藤シェフの独立までのステージとなる場だ。
最初は東京の婚礼レストランの配属になりました。一日で600名ほどの料理を作っていて、とにかく忙しかったですね。かわいがってくれた先輩のおかげで2年目から肉をやらせてもらえ、同期と比べたら早いほうでしたが、今思えば全然できていなかった(苦笑)。しばらくして、20~30席の小さなレストランで気持ちをこめて作りたい、という思いが出てきて、退職を申し出たんです。が、唯一行きたかった三田の「コート・ドール」の面接に落ち、会社からは引き止められ、同時に新しいプロジェクトの提案をいただいて、結局残ることになりました。そして博多でオープンスタッフとして2年、そこではお菓子を学びました。その後、本店辞令が出て広尾の本店で一年間のシェフパティシエ、7ヶ月間の(料理の)スーシェフを。もともとパリに行きたいとはよく口に出していたんですが、ちょうどクリスマスの時期に辞めたいと言ったら、シェフに「自分のことしか考えていない!」と怒られてしまって。ところが、それが社長の耳にも入ったのか、年末に呼び出され、オープンしたばかりのパリ店へのお話をいただけたんです。
パリへ行けるまたとないチャンス。しかし「フランス人と働きたい」と思っていた伊藤シェフには、パリでも日本人の中で働くことに迷いが出る。社長にその思いを伝えるも、とりあえず行けとのアドバイス。まずは一年半の研修制度を用いての渡仏だったため、そのときにまだ気持ちが変わらなければ伝えればいい、と話を受けた。そして2002年3月、念願のパリ入りとなった。
一番下っぱとしての研修期間終了後もフランス人と働きたいという気持ちは変わらず、他へ行きたいと再び退職を申し出ると、今度は札幌の新店舗の立ち上げの話をもらいました。スーシェフをやらせてもらえるというんです。2~3年いたとしてもまだ27歳くらい。それからでもフランスへ行くチャンスはある、これも経験だと思って話を受け、2004年には札幌へ。ところが、結局そこには半年だけしかいなかったんです。サンルイ島から16区にパリ店が移転するという膨大な資金をかけた大プロジェクトがあり、いずれはシェフを引き継いでほしい、と。再び日本人の中での仕事ではありましたが、20代でパリでシェフになれるチャンスを逃す手はないと判断しました。そして2004年10月には2度目の渡仏となったのです。
「ひらまつパリ」のシェフに抜擢され、退職までの10年、一つ星を守り続けた。退職を申し出るたびに新しいプロジェクトを提案し、さまざまなチャレンジと経験をさせてくれた会社には感謝しているという。だが、いつしか会社と自分のやりたいことにズレが生じ、悩んだ末に独立への道を選んだ。

2014年7月末に退職し、昼間は独立のための物件探しなどで動き、夜は親しくしているクラウンバーの創太(渥美シェフ)に誘われて働き、週末は「テロワール・ダヴニール(シェフ御用達の食料品店)」の魚屋でも働かせてもらったりしました。生産者とのつながり、魚の知識など、ここで得たものは今でも非常に役立っています。あとは出張料理人や料理教室をしながら生活費をつなぎ、合計2年ほどを独立準備に費やしました。物件については、不動産屋任せで口を開けている鳥のような状態だったんですが、半年経っても決まらない。それで、自分のやりたい地区を自分の足で回り始めました。ブラッスリーやビストロに飛びこみで入り、物件を売る気はないか聞き、物件オーナーと話がしたいと連絡先を聞いたり。門前払いされたり、変人扱いされたり大変でした(笑)。最終的には、友人のフランス人シェフが情報をくれてこの物件と出合えたんです。資金的に無理だろうと思っていたんですが、立地と条件にしては安くて。予算を超えていて会計士には反対されたんですが、直感で仮契約のサインをして融資の申請を出したんです。当初、銀行融資の審査の感触は良好に見えました。ところが、前年のテロにおけるレストラン業界全体への影響などを考慮した結果ということで、融資不可の連絡があったんです。まさか、という感じでしたね。しばらく呆然としましたが、落ち込んでもいられません。2年弱探してきて、ようやく出合えた自分にはもったいないくらいの物件でした。どうしてもあきらめたくなかった。それで、銀行融資には頼らず、個人融資を募ることにしたんです。可能性が1パーセントでもあるならやってみよう、と。
日本からの送金日数なども考えると、猶予は1週間ほどしかなかった。法的に問題がないように個人融資の草案を練り、いざというときのために生命保険にも加入し、融資者には一切迷惑がかからないようにした。通常の個人融資とは違い、年利は0%だが、食事の割引などレストランのサービスで還元するという仕組みだ。
本当に信頼している方たちに相談したところ、期日までに一口100万円で30人ほどの個人融資者から4000万円超えの資金を集めることができました。自分にとってこの信頼が宝であり、本当に感謝しかありません。おかげで2016年6月に契約にこぎつけることが出来ました。店内の手直しをしてすぐにオープンする予定だったのですが、信用できる元同僚をシェフソムリエとして迎えたく、彼に合わせて9月のグランドオープンとなりました。工事はプロに依頼した部分もありますが、親しい友人たちの手を借りて自分たちでやった部分も多々あります。よく見ていただくと分かると思いますが、手づくり感いっぱいです(笑)。本当に周りの皆さんの支援があってこそです。
いよいよ皆の思いがたくさんつまった「ラルケスト」が2016年9月1日にオープン。そして5ケ月後にはミシュランガイドで星を獲得という快挙を遂げる。
狙ってもいなかったですし、まさか獲れるとは思っていなかったのでうれしいサプライズでした。でも実は、そこに到達するまでにもトラブルは尽きず。肋骨を折ったり、キッチンの浸水で閉店せざるを得なかったり・・・、また、宣伝はしていなかったので知名度が低く、初めのころにはお客さんがゼロの日もありました(苦笑)。でも、いいものを出していれば絶対にお客さんは増えるという自信はあったんです。少しずつお客さんが増えてきて、2017年1月に「フーディング(辛口評価で信頼のあるガイド)」に載り、それからは多忙を極めました。少人数のスタッフで回していたので皆の疲れも半端なかったのですが、そのときにミシュランの星をいただけて報われた気分でしたね。
常に食材にはこだわり、生産者とのつながりに重きを置く伊藤シェフ。生産者のところに自ら足を運び、相手を知り密につき合い、信頼関係を築く。食材ひとつひとつの背景を知るためには必要なことだ。ツメが甘くならないように食材を知り尽くすのだという。
同じにんじん一本でも、気持ちのある生産者とつき合いたいです。生産者とつながっていると、苦しいときにアドバイスをもらえたり、新鮮な食材を優先的に回してくれたりというメリットもありますし、これからも積極的に生産者を訪れ、いい関係を築き続けたいと思います。そういえば、食材に妥協はしたくないので、食材費に少しでも多く回せるように自分なりに工夫している点があるんですよ。たとえば洗い場には誰も雇っていません。人件費を浮かすために自分でやっています。また、クリーニング代やアイロンの人件費の節約のため、テーブルにナプキンを敷いていません。代わりにテーブルの素材に油やコーヒーに強いスカイ(合皮)を採用しました。多くのサンプルを取り寄せ、自分で実験をして選んだのですが、予想より長持ちしていてうれしい誤算です。
短期間で多額の個人融資の目標を達成できる人望の厚さ。考える力、行動力、そして何よりも料理への情熱と実力。そばにいるだけで計り知れないパワーを感じる伊藤シェフから、若い料理人たちへのメッセージをもらった。
若いころは悩むことも迷うことも多い。でも、やりたいことを実現するためにそれに向かって誠実に進み、欲しいもののためには何かを犠牲にすることも仕方がないくらいの気持ちでいることが大切だと思います。それは、不可能を可能にする力になります。
取材: 内田ちはる

シェフの肖像 (vol.8)

L’Archeste(ラルケスト)
オーナーシェフ 伊藤 良明氏

オープンしてわずか5ヶ月という早さで2017年ミシュランの一つ星を獲得した「L’Archeste(ラルケスト)」の伊藤良明(41歳)。96年に東京の「ひらまつ」に入社、「ひらまつパリ」では10年間に渡りシェフを務める。合計18年に及ぶ会社員としての料理人キャリアにピリオドを打ち、「ラルケスト」オーナーシェフとして新たな冒険に繰り出して1年が過ぎたところだ。今パリで目の離せないシェフの一人である。
僕は母と妹の3人家族で、美容院を営んでいた母は忙しくしていました。土曜日、午前の授業が終わって帰宅しても母はまだ仕事中。頑張る母を見ていると「お腹空いた。」とは子供心にも言えず、自分でキッチンに立つようになったんです。妹も仕事を終えた母も「おいしい!」と笑顔で食べてくれ、それがうれしくて。実はそんなにおいしくなかったと思うんですけど(笑)。そのときの「おいしい」がこの道へ入るきっかけでした。食べた人に喜んでもらえるというのは、作る人にとっての一番の活力ですね。
高校卒業後に調理学校(エコール辻)へ入学。学校のコネクションを使えば就職に有利だろうという考えで入ったため、「学ぶには学校よりも現場」だと飲食店でのアルバイトに精を出した。「高校でも落ちこぼれ、調理学校でも出席日数ギリギリの、どうしようもない学生でした。」と笑う。卒業後は、学校の紹介で「ひらまつ」に入社することになる。伊藤シェフの独立までのステージとなる場だ。
最初は東京の婚礼レストランの配属になりました。一日で600名ほどの料理を作っていて、とにかく忙しかったですね。かわいがってくれた先輩のおかげで2年目から肉をやらせてもらえ、同期と比べたら早いほうでしたが、今思えば全然できていなかった(苦笑)。しばらくして、20~30席の小さなレストランで気持ちをこめて作りたい、という思いが出てきて、退職を申し出たんです。が、唯一行きたかった三田の「コート・ドール」の面接に落ち、会社からは引き止められ、同時に新しいプロジェクトの提案をいただいて、結局残ることになりました。そして博多でオープンスタッフとして2年、そこではお菓子を学びました。その後、本店辞令が出て広尾の本店で一年間のシェフパティシエ、7ヶ月間の(料理の)スーシェフを。もともとパリに行きたいとはよく口に出していたんですが、ちょうどクリスマスの時期に辞めたいと言ったら、シェフに「自分のことしか考えていない!」と怒られてしまって。ところが、それが社長の耳にも入ったのか、年末に呼び出され、オープンしたばかりのパリ店へのお話をいただけたんです。
パリへ行けるまたとないチャンス。しかし「フランス人と働きたい」と思っていた伊藤シェフには、パリでも日本人の中で働くことに迷いが出る。社長にその思いを伝えるも、とりあえず行けとのアドバイス。まずは一年半の研修制度を用いての渡仏だったため、そのときにまだ気持ちが変わらなければ伝えればいい、と話を受けた。そして2002年3月、念願のパリ入りとなった。
一番下っぱとしての研修期間終了後もフランス人と働きたいという気持ちは変わらず、他へ行きたいと再び退職を申し出ると、今度は札幌の新店舗の立ち上げの話をもらいました。スーシェフをやらせてもらえるというんです。2~3年いたとしてもまだ27歳くらい。それからでもフランスへ行くチャンスはある、これも経験だと思って話を受け、2004年には札幌へ。ところが、結局そこには半年だけしかいなかったんです。サンルイ島から16区にパリ店が移転するという膨大な資金をかけた大プロジェクトがあり、いずれはシェフを引き継いでほしい、と。再び日本人の中での仕事ではありましたが、20代でパリでシェフになれるチャンスを逃す手はないと判断しました。そして2004年10月には2度目の渡仏となったのです。
「ひらまつパリ」のシェフに抜擢され、退職までの10年、一つ星を守り続けた。退職を申し出るたびに新しいプロジェクトを提案し、さまざまなチャレンジと経験をさせてくれた会社には感謝しているという。だが、いつしか会社と自分のやりたいことにズレが生じ、悩んだ末に独立への道を選んだ。

2014年7月末に退職し、昼間は独立のための物件探しなどで動き、夜は親しくしているクラウンバーの創太(渥美シェフ)に誘われて働き、週末は「テロワール・ダヴニール(シェフ御用達の食料品店)」の魚屋でも働かせてもらったりしました。生産者とのつながり、魚の知識など、ここで得たものは今でも非常に役立っています。あとは出張料理人や料理教室をしながら生活費をつなぎ、合計2年ほどを独立準備に費やしました。物件については、不動産屋任せで口を開けている鳥のような状態だったんですが、半年経っても決まらない。それで、自分のやりたい地区を自分の足で回り始めました。ブラッスリーやビストロに飛びこみで入り、物件を売る気はないか聞き、物件オーナーと話がしたいと連絡先を聞いたり。門前払いされたり、変人扱いされたり大変でした(笑)。最終的には、友人のフランス人シェフが情報をくれてこの物件と出合えたんです。資金的に無理だろうと思っていたんですが、立地と条件にしては安くて。予算を超えていて会計士には反対されたんですが、直感で仮契約のサインをして融資の申請を出したんです。当初、銀行融資の審査の感触は良好に見えました。ところが、前年のテロにおけるレストラン業界全体への影響などを考慮した結果ということで、融資不可の連絡があったんです。まさか、という感じでしたね。しばらく呆然としましたが、落ち込んでもいられません。2年弱探してきて、ようやく出合えた自分にはもったいないくらいの物件でした。どうしてもあきらめたくなかった。それで、銀行融資には頼らず、個人融資を募ることにしたんです。可能性が1パーセントでもあるならやってみよう、と。
日本からの送金日数なども考えると、猶予は1週間ほどしかなかった。法的に問題がないように個人融資の草案を練り、いざというときのために生命保険にも加入し、融資者には一切迷惑がかからないようにした。通常の個人融資とは違い、年利は0%だが、食事の割引などレストランのサービスで還元するという仕組みだ。
本当に信頼している方たちに相談したところ、期日までに一口100万円で30人ほどの個人融資者から4000万円超えの資金を集めることができました。自分にとってこの信頼が宝であり、本当に感謝しかありません。おかげで2016年6月に契約にこぎつけることが出来ました。店内の手直しをしてすぐにオープンする予定だったのですが、信用できる元同僚をシェフソムリエとして迎えたく、彼に合わせて9月のグランドオープンとなりました。工事はプロに依頼した部分もありますが、親しい友人たちの手を借りて自分たちでやった部分も多々あります。よく見ていただくと分かると思いますが、手づくり感いっぱいです(笑)。本当に周りの皆さんの支援があってこそです。
いよいよ皆の思いがたくさんつまった「ラルケスト」が2016年9月1日にオープン。そして5ケ月後にはミシュランガイドで星を獲得という快挙を遂げる。
狙ってもいなかったですし、まさか獲れるとは思っていなかったのでうれしいサプライズでした。でも実は、そこに到達するまでにもトラブルは尽きず。肋骨を折ったり、キッチンの浸水で閉店せざるを得なかったり・・・、また、宣伝はしていなかったので知名度が低く、初めのころにはお客さんがゼロの日もありました(苦笑)。でも、いいものを出していれば絶対にお客さんは増えるという自信はあったんです。少しずつお客さんが増えてきて、2017年1月に「フーディング(辛口評価で信頼のあるガイド)」に載り、それからは多忙を極めました。少人数のスタッフで回していたので皆の疲れも半端なかったのですが、そのときにミシュランの星をいただけて報われた気分でしたね。
常に食材にはこだわり、生産者とのつながりに重きを置く伊藤シェフ。生産者のところに自ら足を運び、相手を知り密につき合い、信頼関係を築く。食材ひとつひとつの背景を知るためには必要なことだ。ツメが甘くならないように食材を知り尽くすのだという。
同じにんじん一本でも、気持ちのある生産者とつき合いたいです。生産者とつながっていると、苦しいときにアドバイスをもらえたり、新鮮な食材を優先的に回してくれたりというメリットもありますし、これからも積極的に生産者を訪れ、いい関係を築き続けたいと思います。そういえば、食材に妥協はしたくないので、食材費に少しでも多く回せるように自分なりに工夫している点があるんですよ。たとえば洗い場には誰も雇っていません。人件費を浮かすために自分でやっています。また、クリーニング代やアイロンの人件費の節約のため、テーブルにナプキンを敷いていません。代わりにテーブルの素材に油やコーヒーに強いスカイ(合皮)を採用しました。多くのサンプルを取り寄せ、自分で実験をして選んだのですが、予想より長持ちしていてうれしい誤算です。
短期間で多額の個人融資の目標を達成できる人望の厚さ。考える力、行動力、そして何よりも料理への情熱と実力。そばにいるだけで計り知れないパワーを感じる伊藤シェフから、若い料理人たちへのメッセージをもらった。
若いころは悩むことも迷うことも多い。でも、やりたいことを実現するためにそれに向かって誠実に進み、欲しいもののためには何かを犠牲にすることも仕方がないくらいの気持ちでいることが大切だと思います。それは、不可能を可能にする力になります。
取材: 内田ちはる