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シェフの肖像 (vol.6)

JIN 仁 (じん)
シェフ 渡邉卓也氏

パリの一等地で、フランス人だけでなく世界中のVIPをも唸らせる鮨を握る渡邉卓也(41歳)。いくつかの転職を経て28歳で独立し、経営者としてのキャリアをスタートさせた。現在は札幌で「田久鮓(たくずし)」など4店舗を展開(うち2店がミシュラン一つ星)。次のステージとして選んだのがパリだった。2013年、本格的な鮨と日本酒を楽しめる店「JIN(じん)」をオープン、翌年にはミシュラン一つ星を獲得の快挙を果たす。
僕は北海道のニセコ出身で、高校卒業後は札幌の光塩調理製菓専門学校に通っていました。そのときに寿司屋の出前スタッフとしてアルバイトを始めたんですが、調理専門学校生であるということで調理の下準備などもさせてもらえて、それが楽しくてね。学校に全然行かなくなってしまったんです。不真面目を理由に理事長に退学させられてしまい、卒業はしていません(苦笑)。そのまま寿司屋に就職したものの、飽き性なこともあって一年もしないうちに辞めました。それから一年くらいはトラックの運転手です。やればやるだけ稼げるというシステムだったのですが、皆に指示を出してうまく配達スケジュールを組み、効率アップすることにやりがいを感じていました。
寿司屋の出前スタッフ、トラックの運転手と、シェフとしては珍しい経歴を持つ。専門学校の同級生に誘われ、日本料理店で働き始めたのが料理人としてのスタートだった。3年が経ち、親方の紹介で次の職場の面接へ行くも、面接中に自分には向いていないと悟り その場で断る。親方の顔に泥を塗ってしまい、当然ながら次の職場は自分で探すことになったという。面接には受かるが、社会保険のない企業であることが分かって却下したり、いざ行くとしっくりこなくてすぐ辞めたり、しばらく落ち着かない日々が続く中、やっとのことでおもしろそうな店を見つけた。創作和食の「稲々(とうとう)」である。

昔気質の日本料理の料理長がいて、僕は2番手として入りました。ところが一ヶ月経ったころ、クリスマス前の繁忙期に料理長が倒れてしまって。そのまま彼は退職となり、急きょ、僕が料理長をやることになったんです。24歳のときでした。オーナーは好きにやらせてくれたので、知り合いや後輩に声をかけ、若いチームでやりたいことをやっていました。原価にはこだわらず、効率も考えていなかったのでビジネス的には良くなかったでしょうね(笑)。休み返上で仕込みをしていましたが、楽しくて仕方がなかったです。それから2年くらいして新しい業態の店をやることになり、立ち上げから一人でやらせてもらえ、そこで店をつくるノウハウを学んだんです。
その経験を生かし、28歳で独立。1店舗目のダイニングレストランはあっという間に評判となり、その後も順調に店舗を展開。3店舗目としてオープンしたのが「田久鮓」だった。ところが渡邉シェフは「独学だったので、たいした技術がなかった。」と苦笑いする。そのシェフが「恩人」だというのが、札幌の「鮨 一幸」の2代目である工藤順也さんだ。魚の仕込みを教えてもらい、相談してはアドバイスをもらい、いろいろ助けてもらったそう。工藤さんのおかげで『考えてやる』ようになったという渡邉シェフは、鮨の世界でもめきめきと頭角を現すようになる。
札幌での事業が波に乗ってきたところで、僕は海外展開も視野に入れ始めました。当初考えていたのはロス。かつて訪れたロスでアメリカの寿司の自由さに刺激を受けたからです。ところが、友人の紹介でニースで活躍する松嶋啓介シェフとつながり、松嶋シェフの紹介でパリ在住の建築家の米川さんとつながり、仕事でよくパリに行く親友の山内くんのすすめもあって初めてパリを訪れたのが2012年1月。そのとき、米川さんからフランスで日本酒バーをやりたい人がいて物件訪問に行くから一緒に来ないかと誘われ、ついて行ったんです。ここで出会ったのが、今のビジネスパートナーのニナ(ニックー・ニナさん)です。
翌日、ニナさんからビジネスの話がしたいと連絡が入る。右も左も分からない初めてのパリのカフェでの待ち合わせ。そこでニナさんの口から出たのは、パリでオープンする日本食店のシェフをしないかという提案だった。渡邉シェフは「やりましょう。」と即答したという。ニナさんが何をしている人なのか、どんな人物なのかも分からないままでの返事だった。だが、渡邉シェフにとってはごく自然な流れで何の疑いもなかったというから運命とは不思議なものだ。日本帰国後、北海道と東京でのメールのやりとりで話を進め、2月頭にはニナさんと米川さんが札幌の渡邉シェフの元を訪れる。6月、9月のパリ再訪で物件の最終契約まで漕ぎつけ、10月からは工事に入る。そして11月、パリ初訪問からわずか10ヶ月でフランスへ移住したのだった。ロスがパリに・・・渡邉シェフにどのような気持ちの変化があったのか。
古いものを愛する町、自分たちのスタイルを確立している町。そこに魅力を感じると同時に、ここならやりがいがあるだろうな、と。ここに江戸前の鮨をもってきて、美食の町パリに衝撃を与えてやろう、と思いました。また、滞在中に出会ったパリで勝負する日本人たちの姿にも衝撃を受けました。「パリのお父さん」と僕が慕う、国虎屋の野本さんもその一人です。彼らと出会い、話しているうちに「やるなら、まずパリかもしれない。パリだ。」となったのです。そこにタイミングよく、ニナとの出会い。これはやるしかないでしょう。

2013年1月、ニナさんとの出会いから一年で「JIN」をオープン。フランス語は「本当に全く出来なかった。」というが、それでもカウンターに座るフランス人たちに鮨を出し、ときにはニナさんの通訳にも助けられながらゼスチャーでコミュニケーションを図った。まさに体当たりの毎日だ。魚文化がないフランスで少しでもいいものを見つけようと、休みの日にはブルターニュ地方やランジス市場に足を運んだ。食材の配達が来なかったり届くものの品質が悪かったり納得のいかないことも多く、文句を言えば次の配達では嫌がらせをされたりと、嫌な経験もたくさんした。それでも真摯に努力し続けた結果、2014年2月にミシュラン一つ星を獲得する。
結果が出せたおかげで、魚業界が変わりました。僕らへの対応はもちろんのこと、業者も増えたし、日本では昔からある活け締めも、フランスではここ数年になってやっと出てきました。まだ数えるほどの人しかできないのですが、それでも確実に需要は増えていますし、これからますます注目されるでしょう。活きのいい魚がもっと手に入るようになるといいですね。JINに来る人が「おいしい。」というのは当たり前に望むことですが、それだけでなく、ハッピーになって帰ってもらいたい。JINでの時間を楽しんでもらいたい。今後は、パリをベースに世界展開を目指しています。たとえば今ならNYがおもしろそうですね。
渡仏一年半後にはご家族(奥様、お子様2人)も移住し、公私ともに充実した日々を送っている渡邉シェフ。それでも新しいチャレンジは続き、とどまることを知らない。彼の周りはいつも素晴らしい人であふれている。実は、かつて退学になった専門学校の理事長とも今でも連絡を取り合う仲だという。シェフの人柄やおおらかな笑顔に魅せられ、どんどん新しい出会いがあり、縁がつながっていく。今後もそのパワーで世界中に「鮨」を、そして「日本」を伝えていってくれるに違いない。
取材: 内田ちはる

シェフの肖像 (vol.6)

JIN 仁 (じん)
シェフ 渡邉卓也氏

パリの一等地で、フランス人だけでなく世界中のVIPをも唸らせる鮨を握る渡邉卓也(41歳)。いくつかの転職を経て28歳で独立し、経営者としてのキャリアをスタートさせた。現在は札幌で「田久鮓(たくずし)」など4店舗を展開(うち2店がミシュラン一つ星)。次のステージとして選んだのがパリだった。2013年、本格的な鮨と日本酒を楽しめる店「JIN(じん)」をオープン、翌年にはミシュラン一つ星を獲得の快挙を果たす。
僕は北海道のニセコ出身で、高校卒業後は札幌の光塩調理製菓専門学校に通っていました。そのときに寿司屋の出前スタッフとしてアルバイトを始めたんですが、調理専門学校生であるということで調理の下準備などもさせてもらえて、それが楽しくてね。学校に全然行かなくなってしまったんです。不真面目を理由に理事長に退学させられてしまい、卒業はしていません(苦笑)。そのまま寿司屋に就職したものの、飽き性なこともあって一年もしないうちに辞めました。それから一年くらいはトラックの運転手です。やればやるだけ稼げるというシステムだったのですが、皆に指示を出してうまく配達スケジュールを組み、効率アップすることにやりがいを感じていました。
寿司屋の出前スタッフ、トラックの運転手と、シェフとしては珍しい経歴を持つ。専門学校の同級生に誘われ、日本料理店で働き始めたのが料理人としてのスタートだった。3年が経ち、親方の紹介で次の職場の面接へ行くも、面接中に自分には向いていないと悟り その場で断る。親方の顔に泥を塗ってしまい、当然ながら次の職場は自分で探すことになったという。面接には受かるが、社会保険のない企業であることが分かって却下したり、いざ行くとしっくりこなくてすぐ辞めたり、しばらく落ち着かない日々が続く中、やっとのことでおもしろそうな店を見つけた。創作和食の「稲々(とうとう)」である。

昔気質の日本料理の料理長がいて、僕は2番手として入りました。ところが一ヶ月経ったころ、クリスマス前の繁忙期に料理長が倒れてしまって。そのまま彼は退職となり、急きょ、僕が料理長をやることになったんです。24歳のときでした。オーナーは好きにやらせてくれたので、知り合いや後輩に声をかけ、若いチームでやりたいことをやっていました。原価にはこだわらず、効率も考えていなかったのでビジネス的には良くなかったでしょうね(笑)。休み返上で仕込みをしていましたが、楽しくて仕方がなかったです。それから2年くらいして新しい業態の店をやることになり、立ち上げから一人でやらせてもらえ、そこで店をつくるノウハウを学んだんです。
その経験を生かし、28歳で独立。1店舗目のダイニングレストランはあっという間に評判となり、その後も順調に店舗を展開。3店舗目としてオープンしたのが「田久鮓」だった。ところが渡邉シェフは「独学だったので、たいした技術がなかった。」と苦笑いする。そのシェフが「恩人」だというのが、札幌の「鮨 一幸」の2代目である工藤順也さんだ。魚の仕込みを教えてもらい、相談してはアドバイスをもらい、いろいろ助けてもらったそう。工藤さんのおかげで『考えてやる』ようになったという渡邉シェフは、鮨の世界でもめきめきと頭角を現すようになる。
札幌での事業が波に乗ってきたところで、僕は海外展開も視野に入れ始めました。当初考えていたのはロス。かつて訪れたロスでアメリカの寿司の自由さに刺激を受けたからです。ところが、友人の紹介でニースで活躍する松嶋啓介シェフとつながり、松嶋シェフの紹介でパリ在住の建築家の米川さんとつながり、仕事でよくパリに行く親友の山内くんのすすめもあって初めてパリを訪れたのが2012年1月。そのとき、米川さんからフランスで日本酒バーをやりたい人がいて物件訪問に行くから一緒に来ないかと誘われ、ついて行ったんです。ここで出会ったのが、今のビジネスパートナーのニナ(ニックー・ニナさん)です。
翌日、ニナさんからビジネスの話がしたいと連絡が入る。右も左も分からない初めてのパリのカフェでの待ち合わせ。そこでニナさんの口から出たのは、パリでオープンする日本食店のシェフをしないかという提案だった。渡邉シェフは「やりましょう。」と即答したという。ニナさんが何をしている人なのか、どんな人物なのかも分からないままでの返事だった。だが、渡邉シェフにとってはごく自然な流れで何の疑いもなかったというから運命とは不思議なものだ。日本帰国後、北海道と東京でのメールのやりとりで話を進め、2月頭にはニナさんと米川さんが札幌の渡邉シェフの元を訪れる。6月、9月のパリ再訪で物件の最終契約まで漕ぎつけ、10月からは工事に入る。そして11月、パリ初訪問からわずか10ヶ月でフランスへ移住したのだった。ロスがパリに・・・渡邉シェフにどのような気持ちの変化があったのか。
古いものを愛する町、自分たちのスタイルを確立している町。そこに魅力を感じると同時に、ここならやりがいがあるだろうな、と。ここに江戸前の鮨をもってきて、美食の町パリに衝撃を与えてやろう、と思いました。また、滞在中に出会ったパリで勝負する日本人たちの姿にも衝撃を受けました。「パリのお父さん」と僕が慕う、国虎屋の野本さんもその一人です。彼らと出会い、話しているうちに「やるなら、まずパリかもしれない。パリだ。」となったのです。そこにタイミングよく、ニナとの出会い。これはやるしかないでしょう。
2013年1月、ニナさんとの出会いから一年で「JIN」をオープン。フランス語は「本当に全く出来なかった。」というが、それでもカウンターに座るフランス人たちに鮨を出し、ときにはニナさんの通訳にも助けられながらゼスチャーでコミュニケーションを図った。まさに体当たりの毎日だ。魚文化がないフランスで少しでもいいものを見つけようと、休みの日にはブルターニュ地方やランジス市場に足を運んだ。食材の配達が来なかったり届くものの品質が悪かったり納得のいかないことも多く、文句を言えば次の配達では嫌がらせをされたりと、嫌な経験もたくさんした。それでも真摯に努力し続けた結果、2014年2月にミシュラン一つ星を獲得する。
結果が出せたおかげで、魚業界が変わりました。僕らへの対応はもちろんのこと、業者も増えたし、日本では昔からある活け締めも、フランスではここ数年になってやっと出てきました。まだ数えるほどの人しかできないのですが、それでも確実に需要は増えていますし、これからますます注目されるでしょう。活きのいい魚がもっと手に入るようになるといいですね。JINに来る人が「おいしい。」というのは当たり前に望むことですが、それだけでなく、ハッピーになって帰ってもらいたい。JINでの時間を楽しんでもらいたい。今後は、パリをベースに世界展開を目指しています。たとえば今ならNYがおもしろそうですね。
渡仏一年半後にはご家族(奥様、お子様2人)も移住し、公私ともに充実した日々を送っている渡邉シェフ。それでも新しいチャレンジは続き、とどまることを知らない。彼の周りはいつも素晴らしい人であふれている。実は、かつて退学になった専門学校の理事長とも今でも連絡を取り合う仲だという。シェフの人柄やおおらかな笑顔に魅せられ、どんどん新しい出会いがあり、縁がつながっていく。今後もそのパワーで世界中に「鮨」を、そして「日本」を伝えていってくれるに違いない。
取材: 内田ちはる