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シェフの肖像 (vol.3)

PAGES(パージュ)
オーナーシェフ 手島竜司氏

フランス人たちに「Teshi」と親しまれ、フランスの美食家たちにも認められる実力派の手島竜司。19歳で地元・熊本のフランス料理店に飛びこんでフランス料理と出合い、23歳でソムリエの資格を取得、そして26歳のときに渡仏。地方の星付きレストランや「ルカ・カルトン」、「Pomze」などでキャリアを積んだのち、シェフ御用達の「テロワール・ダヴニール」(肉屋、魚屋、八百屋、エピスリー)の立ち上げを手伝う。2014年に「PAGES」をオープン、わずか一年半で一つ星を獲得という快挙を果たす。
若いころから「早く自分で事業をしたい、独立したい」という気持ちがありました。数々のアルバイト経験の中でも飲食が楽しかったので、その世界でいこうかなと漠然と思っていた18歳のとき、友人がコックになったんです。当時の僕にはこの「コック」という響きがとてもかっこよくて、激しくジェラシーを感じたんですよ(笑)。それで本気で料理をやろうと決め、19歳で地元のフランス料理店「高田屋」(2015年に閉店)に飛びこみました。

すぐに現場の厨房でやりたかったので専門学校には通わなかったんですが、僕、甘く考えていてね。飲食店でのアルバイト経験があるから大丈夫だろうと思っていたら全然そうではなくて。シェフとの力の差がありすぎて、悔しくて本気で泣きました。このときに料理の奥の深さを知り、自分が考えていたほど飲食での独立は簡単ではないと悟りました。

16席くらいの小さな店で、クラシックな料理、ムダを出さない・・・、今でも思い出しますよ、フォンドヴォーの引きかた。フランスに渡ってフランス料理を学んだ先輩たちの一人で、今でもリスペクトしています。一年くらいして、他も見てみようとワインに強いフレンチの店に移り、そこでワインにどっぷりはまりました。そのころの給料はほとんどワインに消えていましたね。好きが高じてソムリエの資格も取りました。

ワインか料理か迷ったんですが結局は料理を選んで、一度は東京へも出ました。が、その店では一週間も続きませんでした。たとえば、パテドカンパーニュと言っても、出来合いのものを切って出すだけだったんです。それじゃあ意味がない、と。それで次の店をどうしようかと考えていたときにフランス行きを決心したんですが、まずは熊本に戻ってワインバーのキッチンで資金稼ぎ。その後、ワーキングホリデービザで飛び立ちました。
それから独立までの約12年間、あちこちで修行を積む。初めに行った地方の星付きレストランは、小さな住居付きとはいえ給料は月300ユーロのみ。給料の入った袋には自分の名前はなく、他の日本人のものにもすべて同じように「ジャポネ(日本人)」と書いてある。悔しいし、悲しかった。また、言葉の壁もきつかった。それでも頑張るしかなかった。いつまでもここにいるわけにはいかない。パリに出よう。

稼いだわずかな給料は、パリの3つ星レストランに履歴書を出すための資金として消えることになる。手島シェフは何度もパリとの往復を繰り返した。プラザ・アテネ、ジョルジュ・サンク、ギ・サヴォワ、ルカ・カルトン、タイユヴァン・・・、返事のあった中でも、料理とワインのペアリングを先駆けて始めていたサンドランス氏の「ルカ・カルトン」がおもしろそうだと思ったという。そして、パリへやって来ることになる。
「ルカ・カルトン」で一年が過ぎたころ、店を閉めて別の店(現・サンドランス)をオープンするが、残るか?と聞かれました。あと2年いるなら労働許可証の手続きをする、と。もちろんその話は魅力的だったのですが、もっと他も見たいという気持ちがあり結局は辞めました。

それからは、カフェ、ビストロ、ガストロノミーとさまざまなところで働き、パリ8区の「Pomze」で労働許可証を取ってもらいました。ここが初めはひどい状況で・・・、60~70席あるんですが、1~2席しか埋まらない日がザラなんです。料理人たちはもちろんのこと、店そのものに活気がなかった。

そこに直子さん(現在は手島シェフの奥様)が遊びに来て、スカウトされてスタッフ統括者兼パティシエとして働くことになりました。そして彼女が言ったんです、「店を変えなくちゃダメだ。」と。その声でオーナーが動き始め、まずは料理人を辞めさせるところから始まって、いいスタッフを集めて、努力の甲斐あってどんどんお客さんが増えてきて。

目に見えてお店が生まれ変わっていくのは本当におもしろかったしうれしかったですね。とても順調だったのでガストロノミーレストランへの変更も提案したのですが、オーナーは今のまま続けていきたい、と。そして2012年、4年ほど働いた「Pomze」を辞めました。
レストランの立て直しに大きな努力と貢献をし、いわば救世主の一人ともいえる手島シェフ。彼の努力はそこだけにはとどまらなかった。肉をあまり知らないというコンプレックスをつぶすため、また、日本人というと「魚」と思われがちなイメージを払拭するため、3年半ほどの間、レストランの仕事と並行して休日には有名精肉店「ユーゴ・デノワイエ」で働いていたというのだ。

そして、2013年にはシェフ御用達の食材店「テロワール・ダヴニール」の立ち上げを手伝う。おかげでいろんな生産者とのつながりが増え、今でもそのつながりは大切にしているという。その間、独立へ向けての物件探しも進めつつ、ベルギー、スペイン、アメリカなど世界の料理も見て回った。

そして内見50件目くらいにして、ようやく理想の物件に出合う。ボロボロでひどい状態だったが、立地、大きさ、(なぜかそこだけは新品の)排気用煙突については文句なしだった。それから一年ほどかけて大がかりな内装工事を行い、いよいよ2014年7月、「PAGES」が誕生。翌年にはすぐ隣にセカンド店となるワインバー「116」をオープン、さらに一年半後には一つ星を獲得と、その活躍ぶりには目を見張る。
今後は、「PAGES」で僕らしい料理を作り続けつつ、料理人だけでなくてすべての食に関わる人たち、たとえばサービス係のスタッフだったり、生産者さんたちだったりもスポットを浴びることができるような環境づくりにも力を入れていきたいです。

また、昔とは違って、今の小さい子たち、若い人たちは料理人に対しての憧れがあまりないと思うんです。日本の料理人の技術は世界で通用します。圧倒的にレベルが高いし、いい武器になる。もっと料理人の可能性を見てもらって、「憧れの職業ベスト10」に入れたい、たくさんの人に料理人を目指してもらいたい。

「好き」という思いがこもった料理を作れる人がもっと増えてくれたらな、と思っています。
そのためにも、イベントで活性化を図るなどいろんな試みをしていきたいですね。
取材: 内田ちはる

シェフの肖像 (vol.3)

PAGES(パージュ)
オーナーシェフ 手島竜司氏

フランス人たちに「Teshi」と親しまれ、フランスの美食家たちにも認められる実力派の手島竜司。19歳で地元・熊本のフランス料理店に飛びこんでフランス料理と出合い、23歳でソムリエの資格を取得、そして26歳のときに渡仏。地方の星付きレストランや「ルカ・カルトン」、「Pomze」などでキャリアを積んだのち、シェフ御用達の「テロワール・ダヴニール」(肉屋、魚屋、八百屋、エピスリー)の立ち上げを手伝う。2014年に「PAGES」をオープン、わずか一年半で一つ星を獲得という快挙を果たす。
若いころから「早く自分で事業をしたい、独立したい」という気持ちがありました。数々のアルバイト経験の中でも飲食が楽しかったので、その世界でいこうかなと漠然と思っていた18歳のとき、友人がコックになったんです。当時の僕にはこの「コック」という響きがとてもかっこよくて、激しくジェラシーを感じたんですよ(笑)。それで本気で料理をやろうと決め、19歳で地元のフランス料理店「高田屋」(2015年に閉店)に飛びこみました。

すぐに現場の厨房でやりたかったので専門学校には通わなかったんですが、僕、甘く考えていてね。飲食店でのアルバイト経験があるから大丈夫だろうと思っていたら全然そうではなくて。シェフとの力の差がありすぎて、悔しくて本気で泣きました。このときに料理の奥の深さを知り、自分が考えていたほど飲食での独立は簡単ではないと悟りました。

16席くらいの小さな店で、クラシックな料理、ムダを出さない・・・、今でも思い出しますよ、フォンドヴォーの引きかた。フランスに渡ってフランス料理を学んだ先輩たちの一人で、今でもリスペクトしています。一年くらいして、他も見てみようとワインに強いフレンチの店に移り、そこでワインにどっぷりはまりました。そのころの給料はほとんどワインに消えていましたね。好きが高じてソムリエの資格も取りました。

ワインか料理か迷ったんですが結局は料理を選んで、一度は東京へも出ました。が、その店では一週間も続きませんでした。たとえば、パテドカンパーニュと言っても、出来合いのものを切って出すだけだったんです。それじゃあ意味がない、と。それで次の店をどうしようかと考えていたときにフランス行きを決心したんですが、まずは熊本に戻ってワインバーのキッチンで資金稼ぎ。その後、ワーキングホリデービザで飛び立ちました。
それから独立までの約12年間、あちこちで修行を積む。初めに行った地方の星付きレストランは、小さな住居付きとはいえ給料は月300ユーロのみ。給料の入った袋には自分の名前はなく、他の日本人のものにもすべて同じように「ジャポネ(日本人)」と書いてある。悔しいし、悲しかった。また、言葉の壁もきつかった。それでも頑張るしかなかった。いつまでもここにいるわけにはいかない。パリに出よう。

稼いだわずかな給料は、パリの3つ星レストランに履歴書を出すための資金として消えることになる。手島シェフは何度もパリとの往復を繰り返した。プラザ・アテネ、ジョルジュ・サンク、ギ・サヴォワ、ルカ・カルトン、タイユヴァン・・・、返事のあった中でも、料理とワインのペアリングを先駆けて始めていたサンドランス氏の「ルカ・カルトン」がおもしろそうだと思ったという。そして、パリへやって来ることになる。
「ルカ・カルトン」で一年が過ぎたころ、店を閉めて別の店(現・サンドランス)をオープンするが、残るか?と聞かれました。あと2年いるなら労働許可証の手続きをする、と。もちろんその話は魅力的だったのですが、もっと他も見たいという気持ちがあり結局は辞めました。

それからは、カフェ、ビストロ、ガストロノミーとさまざまなところで働き、パリ8区の「Pomze」で労働許可証を取ってもらいました。ここが初めはひどい状況で・・・、60~70席あるんですが、1~2席しか埋まらない日がザラなんです。料理人たちはもちろんのこと、店そのものに活気がなかった。

そこに直子さん(現在は手島シェフの奥様)が遊びに来て、スカウトされてスタッフ統括者兼パティシエとして働くことになりました。そして彼女が言ったんです、「店を変えなくちゃダメだ。」と。その声でオーナーが動き始め、まずは料理人を辞めさせるところから始まって、いいスタッフを集めて、努力の甲斐あってどんどんお客さんが増えてきて。

目に見えてお店が生まれ変わっていくのは本当におもしろかったしうれしかったですね。とても順調だったのでガストロノミーレストランへの変更も提案したのですが、オーナーは今のまま続けていきたい、と。そして2012年、4年ほど働いた「Pomze」を辞めました。
レストランの立て直しに大きな努力と貢献をし、いわば救世主の一人ともいえる手島シェフ。彼の努力はそこだけにはとどまらなかった。肉をあまり知らないというコンプレックスをつぶすため、また、日本人というと「魚」と思われがちなイメージを払拭するため、3年半ほどの間、レストランの仕事と並行して休日には有名精肉店「ユーゴ・デノワイエ」で働いていたというのだ。

そして、2013年にはシェフ御用達の食材店「テロワール・ダヴニール」の立ち上げを手伝う。おかげでいろんな生産者とのつながりが増え、今でもそのつながりは大切にしているという。その間、独立へ向けての物件探しも進めつつ、ベルギー、スペイン、アメリカなど世界の料理も見て回った。

そして内見50件目くらいにして、ようやく理想の物件に出合う。ボロボロでひどい状態だったが、立地、大きさ、(なぜかそこだけは新品の)排気用煙突については文句なしだった。それから一年ほどかけて大がかりな内装工事を行い、いよいよ2014年7月、「PAGES」が誕生。翌年にはすぐ隣にセカンド店となるワインバー「116」をオープン、さらに一年半後には一つ星を獲得と、その活躍ぶりには目を見張る。
今後は、「PAGES」で僕らしい料理を作り続けつつ、料理人だけでなくてすべての食に関わる人たち、たとえばサービス係のスタッフだったり、生産者さんたちだったりもスポットを浴びることができるような環境づくりにも力を入れていきたいです。

また、昔とは違って、今の小さい子たち、若い人たちは料理人に対しての憧れがあまりないと思うんです。日本の料理人の技術は世界で通用します。圧倒的にレベルが高いし、いい武器になる。もっと料理人の可能性を見てもらって、「憧れの職業ベスト10」に入れたい、たくさんの人に料理人を目指してもらいたい。

「好き」という思いがこもった料理を作れる人がもっと増えてくれたらな、と思っています。
そのためにも、イベントで活性化を図るなどいろんな試みをしていきたいですね。
取材: 内田ちはる