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シェフの肖像 (vol.13)

Will(ウィル)
オーナーシェフ 大草真 氏

オープンして間もなく、口コミで人気店となった「Will」のオーナーシェフ、大草真(おおくさ・しん)40歳。いまやフランスのメディアにも多く取り上げられる注目の店である。日本での修行のあと、先輩の紹介によるパリの名店での修行を皮切りに、フランスでのキャリアをスタートさせた。渡仏後10年以上の年月を経て、パティシエである奥さま・綾子さんと共に、2018年3月に念願のレストランをオープンするに至った。
料理人になろうと思ったきっかけですか?あはは、まだ誰にも話したことなかったんじゃないかなぁ。小さなころ、アニメの「ミスター味っ子」が好きだったんです。亡き父の残した食堂を、母と共に支える主人公が料理の味を極めていく、というものなんですが・・・、10歳のときにこれを見ていて、かっこいいなぁ、料理っていいなぁって。僕は母子家庭ではなかったんですが、父は不在のことも多く、母も仕事で帰宅が遅かった。自分のお腹が減るというのもありますし(笑)、遅く帰ってきて疲れた母を見ていたら、子ども心に「手伝おう」と思い、自ら包丁を握るようになりました。作ると喜んでくれるんですよね。それがうれしくて、料理人になろう、と決意しました。
高校までは親元にとどまり、その後は地元を離れて山梨の大学に進学。そのときに老舗のフレンチ「キャセロール」でアルバイトを始めたのがフランス料理との出合いだった。米山シェフの下でゼロから教わった。大学時代には東京に無給の見習いに出かけたりもして貪欲に学び、卒業後には東京に職を得て一年半働いた。その後、再び山梨の「キャセロール」へ。そこで、よく顔を出しにきていたOBの手島純也シェフ(現在は、和歌山のオテル・ド・ヨシノのシェフ)と知り合ったという。
ある日、手島シェフに「僕もいつかフランスで料理をしてみたいです!」と話すと、「ステラマリスのシェフに話しておくから、パリに行くときには包丁とコックコートを忘れるなよ!」と言われました。ステラマリス(2013年に閉店)は、日本人シェフとして2006年に初めてミシュラン一つ星を獲得したレストランで、オテル・ド・ヨシノの吉野氏のお店です。手島シェフは以前にパリでその吉野氏に師事していたのです。おかげで、僕はステラマリスに研修生として受け入れていただきました。当初は観光ビザで渡仏したのですが、研修生ビザを取ってもらえて滞在は延びました。一年半が過ぎ、研修生ビザを延長したはずが・・・、なぜかラッキーなことに、労働許可証が取れました(笑)。
こうして2008年に晴れて労働許可証を取得した大草シェフは、「ジョエル・ロブション」に空きが出るという話をもらい、部門シェフとして移ることになった。ジョエル・ロブションといえば、名店中の名店である。うらやむくらいの華々しいステージだが、ここで大草シェフは大きな困難にぶち当たることになる。
フランスに来てからも、日本人ばかりの中で働いていたためにフランス語がまったく上達していなかったんです。大きなレストランで厨房の人数も多いし、組織として回していかないといけない。フランス語ができない日本人がいきなり部門シェフに来ても、的確な指示もできず、周りからしたら「なんでこんな奴が?」という感じですよね(苦笑)。語学ができないせいで、いやな思いをたくさんしました。このとき、初めて料理人をやめたいと思いました。でも冷静に考えたら、フランス語が分からないのは自分のせい。料理好きな気持ちは負けない。フランス語のせいでやめるのも違うよな、と。それで踏みとどまり、半年くらい過ぎたころに、急にフランス語が分かるようになってきたんです。本当に救われた気持ちでした。結局、そこでは2年半働きました。その後は、フランス料理は地方料理の集大成だと思い、地方料理を見てみることにしました。選んだのは、ワイナリーを所有する親友のいるアルザス地方。ワイン見本市で出会って意気投合、日本へも一緒に行く仲です。アルザスでは、MOF(フランス最優秀技術者章)を持つオリヴィエ・ナスティ氏の2つ星「ル・シャンバール」で肉部門のシェフを務めました。自生のモリーユ、セップ、ハーブなど地のものを大切に使う姿勢、地域の生産者とのつながり・・・、親友のワイナリーでは、朝3時起きで畑に行ったりもしました。彼らは大地と共に生きていて、その姿を間近で見て学ぶことは多かったですね。アルザスでは、フランス料理の根底にあるものに触れられました。

その後は、モロッコのマラケシュでビストロのシェフとしてメニューの全体的な変更を任されたり、ビストロ「Volnay(ヴォルネ)」でシェフを務めた。そこは女性2人がオーナーで、ビストロでありながらお昼からシャトーワインがどんどん出ていくことでも話題になり、2012年当時にもっとも勢いのあるビストロのひとつであった。さらにその後は、あるビストロの立ち上げにも携わった。厨房のプランも任せてもらえ、いずれは自身の店を持ちたいと思っていた大草シェフにとってはいい経験となった。
2015年には本格的に自分の店の準備を進めるためにそこを辞め、知り合いのシェフのレストランなどの手伝いをしていました。それでたまたまエキストラとして入った「AROME」で、シェフから新作開発の担当になってくれないかと声がかかって。迷いましたが、将来的に見ても自分のためになると判断し、結局、スーシェフとして2年ほど働きました。シェフとの相性もよく、気持ちよく仕事をさせてもらえました。また、オープンキッチンだったので、自分のクリエイトした料理に対するお客さんの反応が見られるのがよかったですね。もちろん並行してレストランオープンのための店舗探しは続けていて、経営形態については妻とよく話し合い、夫婦だけですることにしました。
2017年9月、「右岸」「テラス席あり」の条件に合う物件と出合った。今までの物件とは違い、「ここだ!」としっくりくるものがあったという。すぐに交渉をスタートし、2018年3月頭には契約書にサイン。そして10日足らずで自身の店をオープンさせた。周囲も驚くほどのスピードだ。

実はここ、居抜きで購入したんです。あまり手持ち資金がなかったこともあり、内装工事なしでいけるところを探していました。レストラン名も以前の店のものをそのまま引き継いでいます。手直しは、軌道にのって余裕ができてから少しずつやっていこうと。つまりほとんど何もいじっていないので、あっという間にオープンできたというわけです。オーナーシェフが変わることを知らなかった以前からのお客さんにはびっくりされましたし、「何も聞いていない!」と嫌な顔をされることもありました。でもしっかり顔を見て話をし、分かってもらうしかない。そして料理を食べてもらって納得してもらうしかないですよね。今ではリピーターのお客さんも多くでき、うれしい限りです。
そろそろ一年が経とうとしていて、ようやくリズムがつかめてきた。「早く40歳になりたかった」という大草シェフは、人生の中で今が一番「生きている」と感じているそうだ。
すべての出会いには意味があります。出会いのおかげで、僕はここまでくることができました。今は、料理人としての技術や知識をさらに磨くのはもちろんのこと、いい指導者にならなくては、と気を引き締めているところです。料理の世界は新しい時代に突入したと思っています。新しい時代を生きるということは、過去を連れていくということ。僕自身だけでなく、今まで自分たちの礎(いしづえ)になった人々の思いや、やってきたことをしっかり次に伝え、ともに働いてくれる人を育てていきたい。そして、自分がエネルギーに満ちているときはエネルギーのある人に出会えるので、そういう人たちとエネルギーの交換をし、次のステップへと進んでいけたら、と思っています。
取材: 内田ちはる

シェフの肖像 (vol.13)

Will(ウィル)
オーナーシェフ 大草真 氏

オープンして間もなく、口コミで人気店となった「Will」のオーナーシェフ、大草真(おおくさ・しん)40歳。いまやフランスのメディアにも多く取り上げられる注目の店である。日本での修行のあと、先輩の紹介によるパリの名店での修行を皮切りに、フランスでのキャリアをスタートさせた。渡仏後10年以上の年月を経て、パティシエである奥さま・綾子さんと共に、2018年3月に念願のレストランをオープンするに至った。
料理人になろうと思ったきっかけですか?あはは、まだ誰にも話したことなかったんじゃないかなぁ。小さなころ、アニメの「ミスター味っ子」が好きだったんです。亡き父の残した食堂を、母と共に支える主人公が料理の味を極めていく、というものなんですが・・・、10歳のときにこれを見ていて、かっこいいなぁ、料理っていいなぁって。僕は母子家庭ではなかったんですが、父は不在のことも多く、母も仕事で帰宅が遅かった。自分のお腹が減るというのもありますし(笑)、遅く帰ってきて疲れた母を見ていたら、子ども心に「手伝おう」と思い、自ら包丁を握るようになりました。作ると喜んでくれるんですよね。それがうれしくて、料理人になろう、と決意しました。
高校までは親元にとどまり、その後は地元を離れて山梨の大学に進学。そのときに老舗のフレンチ「キャセロール」でアルバイトを始めたのがフランス料理との出合いだった。米山シェフの下でゼロから教わった。大学時代には東京に無給の見習いに出かけたりもして貪欲に学び、卒業後には東京に職を得て一年半働いた。その後、再び山梨の「キャセロール」へ。そこで、よく顔を出しにきていたOBの手島純也シェフ(現在は、和歌山のオテル・ド・ヨシノのシェフ)と知り合ったという。
ある日、手島シェフに「僕もいつかフランスで料理をしてみたいです!」と話すと、「ステラマリスのシェフに話しておくから、パリに行くときには包丁とコックコートを忘れるなよ!」と言われました。ステラマリス(2013年に閉店)は、日本人シェフとして2006年に初めてミシュラン一つ星を獲得したレストランで、オテル・ド・ヨシノの吉野氏のお店です。手島シェフは以前にパリでその吉野氏に師事していたのです。おかげで、僕はステラマリスに研修生として受け入れていただきました。当初は観光ビザで渡仏したのですが、研修生ビザを取ってもらえて滞在は延びました。一年半が過ぎ、研修生ビザを延長したはずが・・・、なぜかラッキーなことに、労働許可証が取れました(笑)。
こうして2008年に晴れて労働許可証を取得した大草シェフは、「ジョエル・ロブション」に空きが出るという話をもらい、部門シェフとして移ることになった。ジョエル・ロブションといえば、名店中の名店である。うらやむくらいの華々しいステージだが、ここで大草シェフは大きな困難にぶち当たることになる。
フランスに来てからも、日本人ばかりの中で働いていたためにフランス語がまったく上達していなかったんです。大きなレストランで厨房の人数も多いし、組織として回していかないといけない。フランス語ができない日本人がいきなり部門シェフに来ても、的確な指示もできず、周りからしたら「なんでこんな奴が?」という感じですよね(苦笑)。語学ができないせいで、いやな思いをたくさんしました。このとき、初めて料理人をやめたいと思いました。でも冷静に考えたら、フランス語が分からないのは自分のせい。料理好きな気持ちは負けない。フランス語のせいでやめるのも違うよな、と。それで踏みとどまり、半年くらい過ぎたころに、急にフランス語が分かるようになってきたんです。本当に救われた気持ちでした。結局、そこでは2年半働きました。その後は、フランス料理は地方料理の集大成だと思い、地方料理を見てみることにしました。選んだのは、ワイナリーを所有する親友のいるアルザス地方。ワイン見本市で出会って意気投合、日本へも一緒に行く仲です。アルザスでは、MOF(フランス最優秀技術者章)を持つオリヴィエ・ナスティ氏の2つ星「ル・シャンバール」で肉部門のシェフを務めました。自生のモリーユ、セップ、ハーブなど地のものを大切に使う姿勢、地域の生産者とのつながり・・・、親友のワイナリーでは、朝3時起きで畑に行ったりもしました。彼らは大地と共に生きていて、その姿を間近で見て学ぶことは多かったですね。アルザスでは、フランス料理の根底にあるものに触れられました。

その後は、モロッコのマラケシュでビストロのシェフとしてメニューの全体的な変更を任されたり、ビストロ「Volnay(ヴォルネ)」でシェフを務めた。そこは女性2人がオーナーで、ビストロでありながらお昼からシャトーワインがどんどん出ていくことでも話題になり、2012年当時にもっとも勢いのあるビストロのひとつであった。さらにその後は、あるビストロの立ち上げにも携わった。厨房のプランも任せてもらえ、いずれは自身の店を持ちたいと思っていた大草シェフにとってはいい経験となった。
2015年には本格的に自分の店の準備を進めるためにそこを辞め、知り合いのシェフのレストランなどの手伝いをしていました。それでたまたまエキストラとして入った「AROME」で、シェフから新作開発の担当になってくれないかと声がかかって。迷いましたが、将来的に見ても自分のためになると判断し、結局、スーシェフとして2年ほど働きました。シェフとの相性もよく、気持ちよく仕事をさせてもらえました。また、オープンキッチンだったので、自分のクリエイトした料理に対するお客さんの反応が見られるのがよかったですね。もちろん並行してレストランオープンのための店舗探しは続けていて、経営形態については妻とよく話し合い、夫婦だけですることにしました。
2017年9月、「右岸」「テラス席あり」の条件に合う物件と出合った。今までの物件とは違い、「ここだ!」としっくりくるものがあったという。すぐに交渉をスタートし、2018年3月頭には契約書にサイン。そして10日足らずで自身の店をオープンさせた。周囲も驚くほどのスピードだ。

実はここ、居抜きで購入したんです。あまり手持ち資金がなかったこともあり、内装工事なしでいけるところを探していました。レストラン名も以前の店のものをそのまま引き継いでいます。手直しは、軌道にのって余裕ができてから少しずつやっていこうと。つまりほとんど何もいじっていないので、あっという間にオープンできたというわけです。オーナーシェフが変わることを知らなかった以前からのお客さんにはびっくりされましたし、「何も聞いていない!」と嫌な顔をされることもありました。でもしっかり顔を見て話をし、分かってもらうしかない。そして料理を食べてもらって納得してもらうしかないですよね。今ではリピーターのお客さんも多くでき、うれしい限りです。
そろそろ一年が経とうとしていて、ようやくリズムがつかめてきた。「早く40歳になりたかった」という大草シェフは、人生の中で今が一番「生きている」と感じているそうだ。
すべての出会いには意味があります。出会いのおかげで、僕はここまでくることができました。今は、料理人としての技術や知識をさらに磨くのはもちろんのこと、いい指導者にならなくては、と気を引き締めているところです。料理の世界は新しい時代に突入したと思っています。新しい時代を生きるということは、過去を連れていくということ。僕自身だけでなく、今まで自分たちの礎(いしづえ)になった人々の思いや、やってきたことをしっかり次に伝え、ともに働いてくれる人を育てていきたい。そして、自分がエネルギーに満ちているときはエネルギーのある人に出会えるので、そういう人たちとエネルギーの交換をし、次のステップへと進んでいけたら、と思っています。
取材: 内田ちはる