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シェフの肖像 (vol.12)

NANAN (ナナン)
オーナーパティシエール 作家由希子氏

2003年に20歳でフランスに渡り、ホテル、パティスリー、レストランなどさまざまなタイプのお菓子づくりの現場でキャリアを積む。30歳を過ぎても日本に帰るという気持ちにはならず、「どうやったらお菓子で生活していけるか」を考えた末、2015年12月、元同僚だったフランス人女性と共に、パリ11区で「NANAN(ナナン)」をオープン。もともとは独立志向ではなかったという作家さんの独立までの足跡を追ってみた。
私が小さかったころ、健康を気遣う母の思いもあり、家にはそれほどたくさんのお菓子はありませんでした。それで、子どもごころにお菓子に憧れを抱いて自分で本を見て作り始めたんです。それを家族もおいしいと喜んでくれて、いつの間にかお菓子作りが趣味になり。母も、そんな私にお菓子作りの道具は惜しまずに買ってくれました。「手づくりのお菓子なら安心」という思いだったと思います。もともと海外に出てみたい気持ちは強く、短大のあとは英語圏の大学に編入することも考えましたが、特にやりたい勉強もなくて。それならば、好きなお菓子で留学してみようと自分の中で自然につながったんです。
こうして2003年10月、製菓学校FERRANDIの外国人コースに通うために渡仏する。ほぼ全員が初心者で、フランス菓子を一通り、基礎から学べるいいコースだったという。学校の斡旋でスタージュ(研修)に行ったのは、当時、クリストフ・ミシャラク氏がシェフ・パティシエを務めていたプラザ・アテネだった。
ホテルのお菓子は衝撃的でした。宝石のようでうっとり、わくわくしました。でも、言葉もできない、技術もないので相手にしてもらえず、洗い場や掃除、フィルムを切るのが最初の仕事で(苦笑)。けれども、最初にきちんとした仕事を間近で見られたことは本当に役立ちました。皆の意識が高く、細かいところまで気を配り、技術も高い。自分もそこにたどり着きたい、何が足りないだろう、どうしたらいいんだろう、と彼らを見てやる気を奮い立たされました。バカンスなどで人が欠ける時期にいい動きをするとチャンスをくれるので、その時を狙っていろいろやらせてもらいましたね。
その後には、約2ヶ月半、パリ20区の「シュクレ・カカオ」へ。お菓子の知識に長けたシェフの指導は厳しく、うたれ強くなったという。2005年には「アルノー・デルモンテル」で求人していることを知りコンタクトを取った結果、採用となる。そこでは一(いち)パティシエとして仕事をこなさなければならず、雑用などが多かった今までとは違い、やらざるを得ない状況だった。
そこには経験者の日本人が何人かいて、技術的なことも丁寧に教えてもらえました。いい先生が横にいてくれる感じで、実践しながら学べてよかったです。また、パトロン(経営者)はあまり現場にはいなかったのですが、とても人間味があって経営者として敏腕でした。人を使うのが上手なんです。いろいろなやり方があるものだな、と思いました。しばらくしてパトロンから労働許可証の取得を提案されたのですが、断りました。というのも、労働許可証を取ってもらうと、当面は他で働くことができなくなるんです。実はこのとき、働きたいところがあって。先輩として働いていた日本人が「ジェラール・ミュロ」の話をよく出していて、じゃあ行ってみようかな、と初めて「ジェラール・ミュロ」のものを食べたら、感動!何度も通っていろんなものを試し、「なんで今まで食べなかったんだろう。ここで働きたい!」と。だから、労働許可証はもういいや、スタージュ(研修)でもいいから「ジェラール・ミュロ」の現場を見てみたい、という気持ちが強かったんです。それで履歴書を持っていき、スタージュ生として採用してもらいました。
自分の本当に見たいこと、やりたいことを第一に考え、労働許可証取得というありがたい提案を辞退した作家さん。このブレない強さが彼女の魅力のひとつである。結局「ジェラール・ミュロ」で労働許可証を取得してもらい、スタージュを含めて5年半をそこで過ごすことになる。
生菓子のポストに固定となり、いろんなものを作っていました。働いて一年経って初めて食べたジェラール・ミュロのタルトには衝撃を受けました!興味がないことでも、ちょっと覗いてみることによって新しい発見につながりますね。オーナーのジェラール・ミュロ氏はよく店にいて、お客様の動きをよく見ていました。週に3~4回は自分でランジス市場に出向いてフルーツを買ったりもされていましたね。どういうタイミングで追加を入れるかの日々の仕事はもちろんのこと、一年間通しての仕事の回し方、たとえばクリスマスやガレット・デ・ロワなどのイベントの前準備、オーガニゼーションも勉強させてもらいました。

5年が過ぎ、学ぶべきことを学んで新しいところを見たくなった作家さんは、レストランのパティスリーを見てみることにした。「ここが好き。」と思えないと夢中になれない性格だ。まずは食べに行ってしっくりくるところを探した。そして働きたいと思ったのが、「ピエール・ガニエール」だった。
レストランはとにかく作る量が多く、スピード感が求められます。同じ素材でも使い方が他とは違ったり、りんごの火の入れ方が今まで見たパティシエとは違ったり、アーティストみたいなシェフでした。ガニエール氏本人が味見を大切にしていて、食べたときに何かビビッとくるように、ただおいしいだけではなく素材を引き出す何かを足していました。レシピではない感覚的なものです。毎日の内容が濃くて、働いたのは1年半ですが3年いた気分です(笑)。そしてガニエールを辞めたあとは、日本人オーナーのレストランのオープニングスタッフになりました。クリエーションもしましたが、シェフの考えに近いものに作り上げる必要がありました。そこにやりがいを感じるかと思っていたのですが、しばらくすると物足りなくなってきたんです。もっと自分でがっつりとお菓子と向き合いたい、と。結局、一年も経たずに引き上げ、他のレストランの建て直しの手伝いにもいきましたが、どうも納得いく感じではなくて。そのとき、30歳を過ぎていました。でも、日本に帰ってお菓子の仕事をする自分をイメージできず、日本に帰るという選択肢はありませんでした。
ちょうど腰を傷めた時期があり、現実的に将来を考えるきっかけにもなった。どうやったらお菓子で生活していけるか。答えは、自分で店を持つことだった。自分の体力が多少衰えても、人を雇うことでお菓子の仕事に携われる。気力的、体力的に手遅れにならないうちに、そして、この先に結婚・出産があるとしたら、それまでには生活基盤を築いておきたいという気持ちもあった。仕事に専念できる今のうちに「自分がずっと働ける場所」を作る必要性を感じたのだった。


ちょうど同じころ、ガニエールで4ヶ月間だけ重なったソフィーとじっくり話す機会があったのですが、彼女も今後の身の振り方について考えているということが分かり、「それなら一緒にやろうよ。」となりました。以前働いたレストランのオーナーが一人ですべてをこなして大変そうだったのを近くで見ていたので、2人でやれば心強いなと思ったんです。お互いの長所、短所をカバーできるのではないか、と。気の合う友人だったので、信頼もしていますし。2014年夏からビジネスプランやお店のコンセプトを練り始め、物件探しを始めました。人口に対してパティスリーの数が少なかった10~12区を中心に探した結果、ここを見つけました。内装は建築家に依頼できる資金がなく、自分たちでなんとか。そして、2015年12月中旬のオープンとなりました。宣伝をしていなかったので、最初はきつかったです。2~3ヶ月間は閑古鳥が鳴いていて、クリスマスだって散々。でも忍耐強くいるしかない。1月のガレット・デ・ロワあたりから地元になじんできて、お客さんも来てくれるようになりました。私のフランス人のイメージとは違って、意外とみんな「新しいもの好き」なので、飽きられないように工夫をしています。この店をやるまでは、あえて日本の素材、たとえば抹茶や柚子を自ら使ったことはなかったのですが、お客さんからリクエストがあるので、日本人であることを前に出してもいいんだ、日本人だからこそできることをやってもいいかもしれない、と考えが変わってきました。また、共同経営だとやはり意見の食い違いも出てきますが、ぶつかっても話し合い、解決策を見つけています。
不安はない、とりあえず前に進むしかない、と作家さん。今まで見てきた経営者像のいいとこ取りをしていきたい、と笑顔で話してくれた。
好きなことを職業にできているのだから、私は幸せ者です。でもまだ発展途上。技術的にも人間的にも、学ぶべきこと、吸収すべきことがたくさんです。嫌なことがあっても続けることによって見えてくることも多かったので、これからもすべてが勉強なのだと思って邁進していきたいと思っています。
取材: 内田ちはる

シェフの肖像 (vol.12)

NANAN (ナナン)
オーナーパティシエール 作家由希子氏

2003年に20歳でフランスに渡り、ホテル、パティスリー、レストランなどさまざまなタイプのお菓子づくりの現場でキャリアを積む。30歳を過ぎても日本に帰るという気持ちにはならず、「どうやったらお菓子で生活していけるか」を考えた末、2015年12月、元同僚だったフランス人女性と共に、パリ11区で「NANAN(ナナン)」をオープン。もともとは独立志向ではなかったという作家さんの独立までの足跡を追ってみた。
私が小さかったころ、健康を気遣う母の思いもあり、家にはそれほどたくさんのお菓子はありませんでした。それで、子どもごころにお菓子に憧れを抱いて自分で本を見て作り始めたんです。それを家族もおいしいと喜んでくれて、いつの間にかお菓子作りが趣味になり。母も、そんな私にお菓子作りの道具は惜しまずに買ってくれました。「手づくりのお菓子なら安心」という思いだったと思います。もともと海外に出てみたい気持ちは強く、短大のあとは英語圏の大学に編入することも考えましたが、特にやりたい勉強もなくて。それならば、好きなお菓子で留学してみようと自分の中で自然につながったんです。
こうして2003年10月、製菓学校FERRANDIの外国人コースに通うために渡仏する。ほぼ全員が初心者で、フランス菓子を一通り、基礎から学べるいいコースだったという。学校の斡旋でスタージュ(研修)に行ったのは、当時、クリストフ・ミシャラク氏がシェフ・パティシエを務めていたプラザ・アテネだった。
ホテルのお菓子は衝撃的でした。宝石のようでうっとり、わくわくしました。でも、言葉もできない、技術もないので相手にしてもらえず、洗い場や掃除、フィルムを切るのが最初の仕事で(苦笑)。けれども、最初にきちんとした仕事を間近で見られたことは本当に役立ちました。皆の意識が高く、細かいところまで気を配り、技術も高い。自分もそこにたどり着きたい、何が足りないだろう、どうしたらいいんだろう、と彼らを見てやる気を奮い立たされました。バカンスなどで人が欠ける時期にいい動きをするとチャンスをくれるので、その時を狙っていろいろやらせてもらいましたね。
その後には、約2ヶ月半、パリ20区の「シュクレ・カカオ」へ。お菓子の知識に長けたシェフの指導は厳しく、うたれ強くなったという。2005年には「アルノー・デルモンテル」で求人していることを知りコンタクトを取った結果、採用となる。そこでは一(いち)パティシエとして仕事をこなさなければならず、雑用などが多かった今までとは違い、やらざるを得ない状況だった。
そこには経験者の日本人が何人かいて、技術的なことも丁寧に教えてもらえました。いい先生が横にいてくれる感じで、実践しながら学べてよかったです。また、パトロン(経営者)はあまり現場にはいなかったのですが、とても人間味があって経営者として敏腕でした。人を使うのが上手なんです。いろいろなやり方があるものだな、と思いました。しばらくしてパトロンから労働許可証の取得を提案されたのですが、断りました。というのも、労働許可証を取ってもらうと、当面は他で働くことができなくなるんです。実はこのとき、働きたいところがあって。先輩として働いていた日本人が「ジェラール・ミュロ」の話をよく出していて、じゃあ行ってみようかな、と初めて「ジェラール・ミュロ」のものを食べたら、感動!何度も通っていろんなものを試し、「なんで今まで食べなかったんだろう。ここで働きたい!」と。だから、労働許可証はもういいや、スタージュ(研修)でもいいから「ジェラール・ミュロ」の現場を見てみたい、という気持ちが強かったんです。それで履歴書を持っていき、スタージュ生として採用してもらいました。
自分の本当に見たいこと、やりたいことを第一に考え、労働許可証取得というありがたい提案を辞退した作家さん。このブレない強さが彼女の魅力のひとつである。結局「ジェラール・ミュロ」で労働許可証を取得してもらい、スタージュを含めて5年半をそこで過ごすことになる。
生菓子のポストに固定となり、いろんなものを作っていました。働いて一年経って初めて食べたジェラール・ミュロのタルトには衝撃を受けました!興味がないことでも、ちょっと覗いてみることによって新しい発見につながりますね。オーナーのジェラール・ミュロ氏はよく店にいて、お客様の動きをよく見ていました。週に3~4回は自分でランジス市場に出向いてフルーツを買ったりもされていましたね。どういうタイミングで追加を入れるかの日々の仕事はもちろんのこと、一年間通しての仕事の回し方、たとえばクリスマスやガレット・デ・ロワなどのイベントの前準備、オーガニゼーションも勉強させてもらいました。

5年が過ぎ、学ぶべきことを学んで新しいところを見たくなった作家さんは、レストランのパティスリーを見てみることにした。「ここが好き。」と思えないと夢中になれない性格だ。まずは食べに行ってしっくりくるところを探した。そして働きたいと思ったのが、「ピエール・ガニエール」だった。
レストランはとにかく作る量が多く、スピード感が求められます。同じ素材でも使い方が他とは違ったり、りんごの火の入れ方が今まで見たパティシエとは違ったり、アーティストみたいなシェフでした。ガニエール氏本人が味見を大切にしていて、食べたときに何かビビッとくるように、ただおいしいだけではなく素材を引き出す何かを足していました。レシピではない感覚的なものです。毎日の内容が濃くて、働いたのは1年半ですが3年いた気分です(笑)。そしてガニエールを辞めたあとは、日本人オーナーのレストランのオープニングスタッフになりました。クリエーションもしましたが、シェフの考えに近いものに作り上げる必要がありました。そこにやりがいを感じるかと思っていたのですが、しばらくすると物足りなくなってきたんです。もっと自分でがっつりとお菓子と向き合いたい、と。結局、一年も経たずに引き上げ、他のレストランの建て直しの手伝いにもいきましたが、どうも納得いく感じではなくて。そのとき、30歳を過ぎていました。でも、日本に帰ってお菓子の仕事をする自分をイメージできず、日本に帰るという選択肢はありませんでした。
何軒も物件を見てまわり、仮契約まで取り付けたものの融資がおりずに足止めをくらう。その間、奥様の純子さんと共に語学学校に通ったり、現地の日本人シェフたちとの交流を深め、仕入れのことや生産者のつながりも教えてもらった。結局、融資なしで自分たちの手持ち資金だけでやりくりすることにした。頼りになるのは自分たちの資本のみで、現地のパートナーの資本は入れていない。改装工事はしばらくお預け、以前のお店を居抜きで使って営業をスタートすることになった。
自分でペンキを塗って水道工事もして(笑)、2016年9月10日にオープンです。オープン当時は、以前の店のお客さんが知らずに入ってきて「お店が変わったんだね。」と話すだけ話して帰っていくことが多かったです。無名シェフが日本からやってきた、という感じだったので、集客が大変でした。それでもなんとか、少しずつ、です。
改装については、工事をお願いしたかったキュイジニスト(キッチン専門のデザイン施工業者)が頼もしく、「(工事資金の)融資がおりなかったなら、おりるように手はずを整えましょう。」と銀行に圧力をかけてくれたんです。おかげで融資がおりることになり、2017年春に2ヶ月弱かけて改装をしました。厨房には特に力を入れましたよ。丈夫だし、動線を考えてあるので使いやすいし、ガストロノミー料理を作る厨房に仕上げてあります。広い分、ひとりで掃除するのが大変ですが(笑)。
ちょうど腰を傷めた時期があり、現実的に将来を考えるきっかけにもなった。どうやったらお菓子で生活していけるか。答えは、自分で店を持つことだった。自分の体力が多少衰えても、人を雇うことでお菓子の仕事に携われる。気力的、体力的に手遅れにならないうちに、そして、この先に結婚・出産があるとしたら、それまでには生活基盤を築いておきたいという気持ちもあった。仕事に専念できる今のうちに「自分がずっと働ける場所」を作る必要性を感じたのだった。


ちょうど同じころ、ガニエールで4ヶ月間だけ重なったソフィーとじっくり話す機会があったのですが、彼女も今後の身の振り方について考えているということが分かり、「それなら一緒にやろうよ。」となりました。以前働いたレストランのオーナーが一人ですべてをこなして大変そうだったのを近くで見ていたので、2人でやれば心強いなと思ったんです。お互いの長所、短所をカバーできるのではないか、と。気の合う友人だったので、信頼もしていますし。2014年夏からビジネスプランやお店のコンセプトを練り始め、物件探しを始めました。人口に対してパティスリーの数が少なかった10~12区を中心に探した結果、ここを見つけました。内装は建築家に依頼できる資金がなく、自分たちでなんとか。そして、2015年12月中旬のオープンとなりました。宣伝をしていなかったので、最初はきつかったです。2~3ヶ月間は閑古鳥が鳴いていて、クリスマスだって散々。でも忍耐強くいるしかない。1月のガレット・デ・ロワあたりから地元になじんできて、お客さんも来てくれるようになりました。私のフランス人のイメージとは違って、意外とみんな「新しいもの好き」なので、飽きられないように工夫をしています。この店をやるまでは、あえて日本の素材、たとえば抹茶や柚子を自ら使ったことはなかったのですが、お客さんからリクエストがあるので、日本人であることを前に出してもいいんだ、日本人だからこそできることをやってもいいかもしれない、と考えが変わってきました。また、共同経営だとやはり意見の食い違いも出てきますが、ぶつかっても話し合い、解決策を見つけています。
不安はない、とりあえず前に進むしかない、と作家さん。今まで見てきた経営者像のいいとこ取りをしていきたい、と笑顔で話してくれた。
好きなことを職業にできているのだから、私は幸せ者です。でもまだ発展途上。技術的にも人間的にも、学ぶべきこと、吸収すべきことがたくさんです。嫌なことがあっても続けることによって見えてくることも多かったので、これからもすべてが勉強なのだと思って邁進していきたいと思っています。
取材: 内田ちはる