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海外で料理人として活躍する方の素顔を
皆様にお届けします

シェフの肖像 (vol.15)

Sushi B(すし ビー)
シェフ 花田雅芳 氏

フランスでの日本食の人気は相変わらず続き、消費者たちの求めるレベルもより高いものとなってきた今、彼らの期待以上の「本物」の和食を提供するために精進する鮨職人がいる。「Sushi B(すし ビー)」の花田雅芳シェフ(37歳)である。2015年にオープン、2017年にはミシュラン一つ星を獲得した。
テレビ番組「料理の鉄人」を憧れの気持ちで見ていて、小学生のころから家の手伝いもよくしていました。料理が好きで「マイ包丁」を持っていたくらいです。調理実習のときにはその包丁を持参し、クラスメイトがピーラーで皮むきをしている横で、包丁で皮をむいていましたね(笑)。卒業文集にも「シェフになりたい」と書いていたくらいで、このときすでに、自分の中で料理の世界に入ることは決めていました。
高校卒業後、すぐに現場へ。勤め先は、お父さまの勤務先のオーナー行きつけの鮨屋。こうして、地元の福岡でキャリアのスタートを切ることとなった。そして、そこで10年の年月を勤め上げることになったのである。
5店舗のうち宴会もあるところに配属になったので、300~1000枚という半端ではない皿数をこなしていました。早朝から市場に仕入れに出かけ、夜中までのハードな仕事に毎日ぐったりで、まだ若かった僕は「辞めたい、遊びたい。」と思うこともありました。でもそのときにお世話になっていた若大将、吉兆出身で僕の師匠にもあたる方から、「10年」の大切さを教えてもらい、なるほどな、と。技術はある程度で身につくけれど、同じ環境の中での人間関係・・・それが仕事仲間との関係でもお客様との関係であっても、そこに重きを置いて、人間力を高めよう、人間として成長しようと思いました。そのとき得たものは僕の人生の糧です。そして、10年の間のうち2年は、同じ系列のアムステルダムのお店でも働いたんです。そこでは海外で本物の和食を伝えることの使命みたいなものを感じ、また日本の外を見て人生観が変わり、その後のビジョンが開けてきました。
こうして29歳のときに新たなステージを目指して退職。次のステージに選んだのは、旅行でしばしば訪れ、刺激を受けていたパリ。肌が合うとも感じていた。もともとは日本からインターネットで職を探したが、自身の目で見たわけではないのでレストランの姿なりが見えず、実際にパリまでやってきて一人でレストランを回ったという。
そんな中、知り合った和食店のオーナーから「眉山 BIZAN」で料理長を探しているのでやってみないかと提案をいただき、ありがたく受けることにしました。多くの方が苦労する労働許可証の取得の手続きも住居も用意してくれるという、パリで挑戦してみたい僕にはまたとないチャンスでした。労働許可証の取得には約一年という年月を要しましたが、その間はアルバイトをし、経験を積み準備を整えました。そして2012年7月に渡仏、眉山で料理長として働き始めました。でも最初の一年は苦しかったですね。とにかく言葉ができないじゃないですか。お客さんや業者とのやりとりにも一苦労だし、前の料理長のやり方を自分のやり方に変えたら、「前の店のほうがよかった。」と言われたりね(苦笑)。でも誠意をこめて接していたら、少しずつお客さんも業者もスタッフも僕についてきてくれるようになりました。ちょうどそのころでしょうか、Sushi B を経営するスリーボンドから料理長のオファーをいただいたのは。でも眉山で約束していた3年も経過していませんでしたし、やっと眉山での仕事も軌道に乗り始めたころだったので丁重にお断りしました。それでもオファーは止まず、そのたびに何度もお断りしていたのですが、眉山ではできないことを表現できる場を与えてもらえるということへの魅力と好奇心に勝てず、次第に僕の気持ちはそちらへ傾いていきました。眉山を紹介して下さった方に相談すると厳しいお言葉もいただきましたが、中途半端な気持ちで続けるのもいけないと思い、2年半で辞めることにしたんです。

熱烈なラブコールをもらい、Sushi Bの料理長に就任することが決まった花田氏。2015年12月のオープンまでは日本人シェフのフレンチレストラン数軒に修行に行きつつ、開店準備にも全力を尽くした。
フランス料理の世界を見るのは、すべてが新鮮でした。シェフたちからフランスの食材をおいしくする技術を学び、これは和食にも生かすことができるぞ、と思いました。食材は日本とは違いますが、それを使ってこちらでしかできない鮨、和食を形にしようと楽しみで仕方がなかったです。あれやりたい、これやりたいとアイデアが次々と湧いてきて、新しいお店への不安はまったくありませんでした。こうして「Sushi B」のオープンを迎えたわけですが、宣伝をしていなかったため、友人や知り合いで埋まった初日を除いては、半年ほど厳しかったですね。キッチン2人、ホール2人でスタートしたのですが、掃除だけして帰る日もありました(苦笑)。でも、目の前のお客さんを大切にしていれば、絶対に大丈夫だという自信があって。実際に、一度来て下さった方が誰かを連れてきてくれたりして、半年くらい経って予約が常に入ってくるようになりました。鮨屋なのに魚が食べられないという方も来店されたこともありましたが、鮨なしのコースで対応してなんとか満足して帰っていただけました。
自分のやりたいことはもちろんのこと、さまざまなケースに柔軟に対応し、お客様の喜ぶ顔を見るために、日々、邁進し続けて来た。結果、2017年にはミシュランガイド1つ星を獲得。レストランガイドのフーディングやゴーミヨからも良い評価をもらう。

ミシュランのために、とは思っていませんでしたが、自分のやってきたことを、ミシュラン含め、さまざまなレストランガイドから評価してもらえたことは素直にうれしかったです。文句を言わずについてきてくれたスタッフには本当に感謝しています。今はキッチン3人、ホール3人、洗い場1人、経営担当1人という構成になり、チームで動けることが本当に楽しく、ストレスがありません。いい環境に置いてもらっていると思います。これからも誰ひとり欠けてもいけないという責任感や誇りを持ち、チーム一丸となって進んでいきたいですね。相変わらず、外に出たときの振る舞いを含め、他の星付きに失礼のないようにという思いはありますが、今はもう、プレッシャーはなくなりました。常にチャレンジあるのみで、次は2つ星を目指します!
2つ星を目指すときっぱり言い切ってくれたときの笑顔は気持ちがいいくらい清々しかった。「Sushi B」に2つ目の星が輝く日は、そう遠くない気がする。
取材: 内田ちはる
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シェフの肖像 (vol.15)

Sushi B(すし ビー)
シェフ 花田雅芳 氏

フランスでの日本食の人気は相変わらず続き、消費者たちの求めるレベルもより高いものとなってきた今、彼らの期待以上の「本物」の和食を提供するために精進する鮨職人がいる。「Sushi B(すし ビー)」の花田雅芳シェフ(37歳)である。2015年にオープン、2017年にはミシュラン一つ星を獲得した。
テレビ番組「料理の鉄人」を憧れの気持ちで見ていて、小学生のころから家の手伝いもよくしていました。料理が好きで「マイ包丁」を持っていたくらいです。調理実習のときにはその包丁を持参し、クラスメイトがピーラーで皮むきをしている横で、包丁で皮をむいていましたね(笑)。卒業文集にも「シェフになりたい」と書いていたくらいで、このときすでに、自分の中で料理の世界に入ることは決めていました。
高校卒業後、すぐに現場へ。勤め先は、お父さまの勤務先のオーナー行きつけの鮨屋。こうして、地元の福岡でキャリアのスタートを切ることとなった。そして、そこで10年の年月を勤め上げることになったのである。
5店舗のうち宴会もあるところに配属になったので、300~1000枚という半端ではない皿数をこなしていました。早朝から市場に仕入れに出かけ、夜中までのハードな仕事に毎日ぐったりで、まだ若かった僕は「辞めたい、遊びたい。」と思うこともありました。でもそのときにお世話になっていた若大将、吉兆出身で僕の師匠にもあたる方から、「10年」の大切さを教えてもらい、なるほどな、と。技術はある程度で身につくけれど、同じ環境の中での人間関係・・・それが仕事仲間との関係でもお客様との関係であっても、そこに重きを置いて、人間力を高めよう、人間として成長しようと思いました。そのとき得たものは僕の人生の糧です。そして、10年の間のうち2年は、同じ系列のアムステルダムのお店でも働いたんです。そこでは海外で本物の和食を伝えることの使命みたいなものを感じ、また日本の外を見て人生観が変わり、その後のビジョンが開けてきました。
こうして29歳のときに新たなステージを目指して退職。次のステージに選んだのは、旅行でしばしば訪れ、刺激を受けていたパリ。肌が合うとも感じていた。もともとは日本からインターネットで職を探したが、自身の目で見たわけではないのでレストランの姿なりが見えず、実際にパリまでやってきて一人でレストランを回ったという。
そんな中、知り合った和食店のオーナーから「眉山 BIZAN」で料理長を探しているのでやってみないかと提案をいただき、ありがたく受けることにしました。多くの方が苦労する労働許可証の取得の手続きも住居も用意してくれるという、パリで挑戦してみたい僕にはまたとないチャンスでした。労働許可証の取得には約一年という年月を要しましたが、その間はアルバイトをし、経験を積み準備を整えました。そして2012年7月に渡仏、眉山で料理長として働き始めました。でも最初の一年は苦しかったですね。とにかく言葉ができないじゃないですか。お客さんや業者とのやりとりにも一苦労だし、前の料理長のやり方を自分のやり方に変えたら、「前の店のほうがよかった。」と言われたりね(苦笑)。でも誠意をこめて接していたら、少しずつお客さんも業者もスタッフも僕についてきてくれるようになりました。ちょうどそのころでしょうか、Sushi B を経営するスリーボンドから料理長のオファーをいただいたのは。でも眉山で約束していた3年も経過していませんでしたし、やっと眉山での仕事も軌道に乗り始めたころだったので丁重にお断りしました。それでもオファーは止まず、そのたびに何度もお断りしていたのですが、眉山ではできないことを表現できる場を与えてもらえるということへの魅力と好奇心に勝てず、次第に僕の気持ちはそちらへ傾いていきました。眉山を紹介して下さった方に相談すると厳しいお言葉もいただきましたが、中途半端な気持ちで続けるのもいけないと思い、2年半で辞めることにしたんです。

熱烈なラブコールをもらい、Sushi Bの料理長に就任することが決まった花田氏。2015年12月のオープンまでは日本人シェフのフレンチレストラン数軒に修行に行きつつ、開店準備にも全力を尽くした。
フランス料理の世界を見るのは、すべてが新鮮でした。シェフたちからフランスの食材をおいしくする技術を学び、これは和食にも生かすことができるぞ、と思いました。食材は日本とは違いますが、それを使ってこちらでしかできない鮨、和食を形にしようと楽しみで仕方がなかったです。あれやりたい、これやりたいとアイデアが次々と湧いてきて、新しいお店への不安はまったくありませんでした。こうして「Sushi B」のオープンを迎えたわけですが、宣伝をしていなかったため、友人や知り合いで埋まった初日を除いては、半年ほど厳しかったですね。キッチン2人、ホール2人でスタートしたのですが、掃除だけして帰る日もありました(苦笑)。でも、目の前のお客さんを大切にしていれば、絶対に大丈夫だという自信があって。実際に、一度来て下さった方が誰かを連れてきてくれたりして、半年くらい経って予約が常に入ってくるようになりました。鮨屋なのに魚が食べられないという方も来店されたこともありましたが、鮨なしのコースで対応してなんとか満足して帰っていただけました。
自分のやりたいことはもちろんのこと、さまざまなケースに柔軟に対応し、お客様の喜ぶ顔を見るために、日々、邁進し続けて来た。結果、2017年にはミシュランガイド1つ星を獲得。レストランガイドのフーディングやゴーミヨからも良い評価をもらう。

ミシュランのために、とは思っていませんでしたが、自分のやってきたことを、ミシュラン含め、さまざまなレストランガイドから評価してもらえたことは素直にうれしかったです。文句を言わずについてきてくれたスタッフには本当に感謝しています。今はキッチン3人、ホール3人、洗い場1人、経営担当1人という構成になり、チームで動けることが本当に楽しく、ストレスがありません。いい環境に置いてもらっていると思います。これからも誰ひとり欠けてもいけないという責任感や誇りを持ち、チーム一丸となって進んでいきたいですね。相変わらず、外に出たときの振る舞いを含め、他の星付きに失礼のないようにという思いはありますが、今はもう、プレッシャーはなくなりました。常にチャレンジあるのみで、次は2つ星を目指します!
2つ星を目指すときっぱり言い切ってくれたときの笑顔は気持ちがいいくらい清々しかった。「Sushi B」に2つ目の星が輝く日は、そう遠くない気がする。
取材: 内田ちはる