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海外で料理人として活躍する方の素顔を
皆様にお届けします

シェフの肖像 (vol.9)

Virtus(ヴィルチュス)
シェフ 神崎千帆 氏

近ごろの社会における女性の活躍には目を見張るものがある。しかし料理の世界ではまだまだ女性シェフの数は少ないのが現実だ。そんな中、異国の地フランスでシェフとして活躍する日本人女性がいる。彼女の名は、神崎千帆(38歳)。20歳で渡仏、約2年の研修を終えて帰国。日本で修行を積み、2007年には再度の渡仏に挑む。南仏「Mirazur(ミラズール)」(2012年に二つ星)でのスーシェフなどを経て、現在はパリ12区「Virtus」のシェフである。カジュアルシックな居心地のよい店内で、女性らしさが垣間見られる料理が味わえると注目されている。
私は物心がついたころから、家の台所で食事の支度をする親の横に椅子を持っていき、手元を覗くのが好きでした。きちんとしたタイトルは忘れてしまったのですが、カレーライスの絵本を読んで、幼い私は内容を少し勘違いしてしまい、美味しくなれとお願いすれば美味しくなると信じてドロドロになるまでカレーを混ぜていた記憶がありますね。ちなみに、小学生のときの愛読書は「オレンジページ」です(笑)。こんな感じだったので、「食」の職業に就くのが自分にとって自然なことでした。高校時代は成績も内申も悪く、東京のある調理師専門学校の面接では、私の服装と茶髪を見て「あなたみたいな人はうちの学校では続かない 。」と言われ(苦笑)。結局、大阪の辻調にアルバイト進学制度で入学し、朝は授業、その後は仕事で生活費を稼ぐ毎日でした。学校が紹介してくれたアルバイト先は日本料理店で、板前さんの姿勢には学ぶことが多かったです。「苦労は買ってでもしろ。」と言われたのですが、今でもその言葉が日々の支えですね。そこで一年ほど、そしてその後は「シェ・麻里お」(2011年閉店)で働き、そのまま就職しました。こちらの中川シェフは、料理人でありパティシエであり。料理もできてデザートもできるというところに大いに影響を受け、私も料理だけでなくお菓子もしっかり学びたいと思わせてくれた方です。
その後、当時付き合っていた尊敬する彼がフランスへ渡ったことに感化され、神崎シェフも2000年にフランスへ飛び立つ。周りには彼に迷惑をかけてはいけないと反対されたというが、「あのとき反対されてよかった。反対を押し切ってまで渡仏したのだから、とことん踏ん張らないと、と思えたから。」と笑う。神崎シェフの気持ちは中途半端なものではなかった。地方の語学学校に通いつつ、200通以上の履歴書を送ってアルバイト先を探し、ある日は南仏まで行って直談判するも門前払いされたこともあるという。
フランス語も全然できないくせに電車やバスを乗り継いで、「オーベルジュ・ラ・フニエール」という女性シェフの星付きレストランまで出かけました。たまたま通りかかったシェフに、「あなたのところで働きたい!」と頼んだのですが、学生アルバイトは雇っていないらしく、労働許可証がないなら無理と断られてしまったんです。ショックが大きくて、そこで食事をしたときの味はまったく覚えていないです(苦笑)。履歴書を送っても断られまくりでしたが、ダメでもほとんどが返事をくれて。手紙は今でも残してあります、私の宝ものですから。そして唯一、アヴィニョンの「オーベルジュ・ド・カッサーニュ」という星付きレストランがオッケーの返事をくれたのです。辻調グループのフランス校の生徒だと勘違いしたみたいです(笑)。私が入った肉部門のシェフをしていた19歳の子が3つ星ルカ・カルトンで働いていたことがあり、半年後に私のために推薦状を書いてくれたおかげでそこで3ヶ月の研修をすることができました。3つ星の経験があるとその後はスムーズで、学生ビザの残りの期間にさまざまな星付きで研修させてもらえました。
フランスで通用するようになるために日本でも修行しようと帰国。しかし、日本での職探しはスムーズにはいかず、やっと決まったところは冷凍食品を出すところですぐに辞めた。焦りが出てきたが、妥協はしたくなかった。そのとき、知り合いだった横浜のパティスリー「クール・オン・フルール」(2014年閉店)の奥田シェフが声をかけてくれたのだという。
パティシエでもない私を拾ってくれたんです。お菓子もしっかり作れる料理人になりたいと思っていたので、願ってもないチャンスでした。分量計算はきっちりだし、生地の混ぜ加減ひとつでも生地が死んだりするような世界。料理とはまた違うんです。ここで学んだモンブランがベースのデザートを作ったりもしますし、お菓子を作る工程で学んだことをヒントに新しい料理を考えたりもします。こんなふうに、目指しているものがブレなければ学んだことは必ず役に立つのだということを体感しています。2年経ちお菓子作りも身についてきたところで、食べに行って衝撃を受けた都志見シェフの「ミラヴィル」(現在は「TSU SHI MI」)に入りました。毎日が濃かったです。仕込みの量が半端ないんです。今思えば自分の要領が悪いからなんですが、ほぼ毎日泣いていました。仕事が出来なさすぎて腐ってしまい、何をやってもダメだ、と自信がマイナス100くらいで。シェフもよく私をクビにしなかったな、と思います。2年経ったときに辞めて・・・というより、情けないですが逃げる感じでしたね。その日に、一年以内にフランスに戻ろう、と決意したんです。
半年間は銀座のフレンチレストラン、半年はワインバーで料理を。そして着々と準備を進め、2007年初めにワーキングホリデービザで再渡仏をする。就職先は、前回の渡仏時から働きたかった2つ星「ジャン・ポール・ジュネ」。女性はダメと断られるも粘り、ついにはオッケーをもらったのだそう。
研修生扱いだったので、初めの2ヶ月間はお給料なし。住居とまかないがあるのでなんとか生きて行けますが、手持ち金がないので一ヶ月10ユーロ生活でした。時計も携帯電話も持っていないので時間が分からず、太陽の動きを見て行動していました。そのせいで皆よりだいぶ早く到着し、何か盗みでも働いているのではと怪しまれたこともありました。また、研修生はどれだけ仕込みを終わらせても肉の解体をやらせてもらえず、悔しくてスーシェフに泣きながらお願いをして子羊の解体をやらせてもらったこともありますね。10ヶ月間まかない担当で、どんなものにも必ずソースを一から作るのが掟で大変でしたが、とても勉強になりました。初日は「まずい!」と捨てられましたけれど(苦笑)。
10ヶ月働いたのち、残り2ヶ月のワーキングホリデービザで雇ってくれたのがイタリア国境近くの「Mirazur(ミラズール)」。働きぶりを見て、一週間で労働許可証の申請を申し出てくれた。ビザが切れる直前まで働き、労働許可証の結果待ちのために帰国。結果が出るまではアルバイトをしながら不安な毎日だったという。そして半年後、晴れて労働許可証を手にしてミラズールへと戻ったのである。
ミラズールは、私が7年間いた場所。マウロシェフの料理が大好きでした。料理の味は仕上げのハーブひとつで決まると言っても過言ではないほどハーブは大切な存在で、ここではハーブ担当がいるくらい。山に30~40種類の香草や野草を探しに行くのです。嫌がる人が多いのですが、私は完璧にハーブの種類をマスターし、シェフが必要とするときに、きれいな状態で必要なハーブを渡せるようにしておきました。そんな小さな努力を認めてもらえてか、次々と新しい部門を任せてもらえ、いよいよ肉部門も。そこでは、前の店でまかないを作って火入れの勉強した経験が役立ちました。一年経ったころ、スーシェフになることを提案されたのですが、自分はまだ未熟だということでお断りし、肉部門と魚部門のシェフをそれぞれ一年してから引き受けました。
断る勇気を持つこと。簡単そうでなかなかできないことである。2011年にスーシェフの一人となったが、もう一人のスーシェフとの温度差を感じずにはいられなかった。シェフ不在のときにミスは許されない。守ろうと必死で「風船みたいにパンッと割れてしまいそうなくらいいっぱいいっぱい」だったという。サービス担当とぶつかり合うことも多々あったそうだ。こうした神崎シェフの努力の甲斐もあり、2012年にミラズールは2つ星となる。世界のレストランランキングでも上位に食い込み、「貢献できた、とほっとしました。」と神崎シェフは笑顔を見せる。そして2014年、パリへとやって来る。
マウロシェフが南アメリカに進出予定で、私はそちらに参画するつもりだったんですが、最後の最後に話が流れてしまって。それで行き着いたのが、彼のつながりで紹介してもらったパリ7区のレストラン。でも私のやりたいものとは少し違ったんです。しばらくして、そこと同じオーナーが経営するClandeのシェフのあとを、ミラズール時代から仕事もプライベートも一緒のマルセロと共に名前を現在のVirtusに変え引き継ぐことになりました。2人でシェフをやりつつ、経営者ではないけれど、経営者のつもりで原価率も人件費も考えて一年やってきて、数字として結果が出せていると感じます。実は前のレストランでは星つきレストランのノリで厳しくしすぎて自分たち以外全員が辞めてしまったことがあり、人のマネジメントの難しさを痛感しているので、その経験も含め、すべてを次につなげていきたいですね。
6月にはイタリアで250人に、9月にはパリで600人に料理を振る舞うイベントにも参加しました。昔の私ならリスクを考えすぎて絶対に断るイベントですが、新しいことをしてみようと思って。発注、仕込み、盛りつけもふだんとは違うので大変でしたが、とても有意義な経験でした。ミラズール時代、マウロシェフの海外イベントに同行したり、多くの方々を紹介してもらえたおかげで世界的なイベントにも声をかけていただけるのがありがたいです。そんな中で会う女性シェフは、子持ちでも活躍されている方が多くて・・・、子育てを通じて世界が広がるおかげで料理にもますますの幅が出ると思いますし、彼女たちの姿は見ていていい刺激になります。
Virtusは(取材直後の)2017年11月に移転リニューアルオープンし、新しいスタートを切っている。世界4位のタイトルを持つソムリエのパズさんは新店ではコンサルティングのみの参加だが、それ以外のチームはそのまま移動。さらに新しいメンバーも加わり、ますます勢いを増している。また、神崎シェフとマルセロシェフも経営者として加わるための手続き中であり、ついにオーナーシェフとなる日も近づいてきた。

人生、後悔するかしないかは自分次第。決めたことには100%の力で行くこと、あきらめないでやり続けることが大切だと思います。
どんな経験にも精一杯取り組んで次に生かし、どんなときも周りの人に感謝を忘れず、常に全力でひたむきに進む姿はまぶしい。女性らしいしなやかさと本当の強さを兼ね備えた神崎シェフの今後から目が離せそうもない。
取材: 内田ちはる
海外で料理人として活躍する方の
素顔を皆様にお届けします

シェフの肖像 (vol.9)

Virtus(ヴィルチュス)
シェフ 神崎千帆 氏

近ごろの社会における女性の活躍には目を見張るものがある。しかし料理の世界ではまだまだ女性シェフの数は少ないのが現実だ。そんな中、異国の地フランスでシェフとして活躍する日本人女性がいる。彼女の名は、神崎千帆(38歳)。20歳で渡仏、約2年の研修を終えて帰国。日本で修行を積み、2007年には再度の渡仏に挑む。南仏「Mirazur(ミラズール)」(2012年に二つ星)でのスーシェフなどを経て、現在はパリ12区「Virtus」のシェフである。カジュアルシックな居心地のよい店内で、女性らしさが垣間見られる料理が味わえると注目されている。
私は物心がついたころから、家の台所で食事の支度をする親の横に椅子を持っていき、手元を覗くのが好きでした。きちんとしたタイトルは忘れてしまったのですが、カレーライスの絵本を読んで、幼い私は内容を少し勘違いしてしまい、美味しくなれとお願いすれば美味しくなると信じてドロドロになるまでカレーを混ぜていた記憶がありますね。ちなみに、小学生のときの愛読書は「オレンジページ」です(笑)。こんな感じだったので、「食」の職業に就くのが自分にとって自然なことでした。高校時代は成績も内申も悪く、東京のある調理師専門学校の面接では、私の服装と茶髪を見て「あなたみたいな人はうちの学校では続かない 。」と言われ(苦笑)。結局、大阪の辻調にアルバイト進学制度で入学し、朝は授業、その後は仕事で生活費を稼ぐ毎日でした。学校が紹介してくれたアルバイト先は日本料理店で、板前さんの姿勢には学ぶことが多かったです。「苦労は買ってでもしろ。」と言われたのですが、今でもその言葉が日々の支えですね。そこで一年ほど、そしてその後は「シェ・麻里お」(2011年閉店)で働き、そのまま就職しました。こちらの中川シェフは、料理人でありパティシエであり。料理もできてデザートもできるというところに大いに影響を受け、私も料理だけでなくお菓子もしっかり学びたいと思わせてくれた方です。
その後、当時付き合っていた尊敬する彼がフランスへ渡ったことに感化され、神崎シェフも2000年にフランスへ飛び立つ。周りには彼に迷惑をかけてはいけないと反対されたというが、「あのとき反対されてよかった。反対を押し切ってまで渡仏したのだから、とことん踏ん張らないと、と思えたから。」と笑う。神崎シェフの気持ちは中途半端なものではなかった。地方の語学学校に通いつつ、200通以上の履歴書を送ってアルバイト先を探し、ある日は南仏まで行って直談判するも門前払いされたこともあるという。
フランス語も全然できないくせに電車やバスを乗り継いで、「オーベルジュ・ラ・フニエール」という女性シェフの星付きレストランまで出かけました。たまたま通りかかったシェフに、「あなたのところで働きたい!」と頼んだのですが、学生アルバイトは雇っていないらしく、労働許可証がないなら無理と断られてしまったんです。ショックが大きくて、そこで食事をしたときの味はまったく覚えていないです(苦笑)。履歴書を送っても断られまくりでしたが、ダメでもほとんどが返事をくれて。手紙は今でも残してあります、私の宝ものですから。そして唯一、アヴィニョンの「オーベルジュ・ド・カッサーニュ」という星付きレストランがオッケーの返事をくれたのです。辻調グループのフランス校の生徒だと勘違いしたみたいです(笑)。私が入った肉部門のシェフをしていた19歳の子が3つ星ルカ・カルトンで働いていたことがあり、半年後に私のために推薦状を書いてくれたおかげでそこで3ヶ月の研修をすることができました。3つ星の経験があるとその後はスムーズで、学生ビザの残りの期間にさまざまな星付きで研修させてもらえました。
フランスで通用するようになるために日本でも修行しようと帰国。しかし、日本での職探しはスムーズにはいかず、やっと決まったところは冷凍食品を出すところですぐに辞めた。焦りが出てきたが、妥協はしたくなかった。そのとき、知り合いだった横浜のパティスリー「クール・オン・フルール」(2014年閉店)の奥田シェフが声をかけてくれたのだという。
パティシエでもない私を拾ってくれたんです。お菓子もしっかり作れる料理人になりたいと思っていたので、願ってもないチャンスでした。分量計算はきっちりだし、生地の混ぜ加減ひとつでも生地が死んだりするような世界。料理とはまた違うんです。ここで学んだモンブランがベースのデザートを作ったりもしますし、お菓子を作る工程で学んだことをヒントに新しい料理を考えたりもします。こんなふうに、目指しているものがブレなければ学んだことは必ず役に立つのだということを体感しています。2年経ちお菓子作りも身についてきたところで、食べに行って衝撃を受けた都志見シェフの「ミラヴィル」(現在は「TSU SHI MI」)に入りました。毎日が濃かったです。仕込みの量が半端ないんです。今思えば自分の要領が悪いからなんですが、ほぼ毎日泣いていました。仕事が出来なさすぎて腐ってしまい、何をやってもダメだ、と自信がマイナス100くらいで。シェフもよく私をクビにしなかったな、と思います。2年経ったときに辞めて・・・というより、情けないですが逃げる感じでしたね。その日に、一年以内にフランスに戻ろう、と決意したんです。
半年間は銀座のフレンチレストラン、半年はワインバーで料理を。そして着々と準備を進め、2007年初めにワーキングホリデービザで再渡仏をする。就職先は、前回の渡仏時から働きたかった2つ星「ジャン・ポール・ジュネ」。女性はダメと断られるも粘り、ついにはオッケーをもらったのだそう。
研修生扱いだったので、初めの2ヶ月間はお給料なし。住居とまかないがあるのでなんとか生きて行けますが、手持ち金がないので一ヶ月10ユーロ生活でした。時計も携帯電話も持っていないので時間が分からず、太陽の動きを見て行動していました。そのせいで皆よりだいぶ早く到着し、何か盗みでも働いているのではと怪しまれたこともありました。また、研修生はどれだけ仕込みを終わらせても肉の解体をやらせてもらえず、悔しくてスーシェフに泣きながらお願いをして子羊の解体をやらせてもらったこともありますね。10ヶ月間まかない担当で、どんなものにも必ずソースを一から作るのが掟で大変でしたが、とても勉強になりました。初日は「まずい!」と捨てられましたけれど(苦笑)。
10ヶ月働いたのち、残り2ヶ月のワーキングホリデービザで雇ってくれたのがイタリア国境近くの「Mirazur(ミラズール)」。働きぶりを見て、一週間で労働許可証の申請を申し出てくれた。ビザが切れる直前まで働き、労働許可証の結果待ちのために帰国。結果が出るまではアルバイトをしながら不安な毎日だったという。そして半年後、晴れて労働許可証を手にしてミラズールへと戻ったのである。
ミラズールは、私が7年間いた場所。マウロシェフの料理が大好きでした。料理の味は仕上げのハーブひとつで決まると言っても過言ではないほどハーブは大切な存在で、ここではハーブ担当がいるくらい。山に30~40種類の香草や野草を探しに行くのです。嫌がる人が多いのですが、私は完璧にハーブの種類をマスターし、シェフが必要とするときに、きれいな状態で必要なハーブを渡せるようにしておきました。そんな小さな努力を認めてもらえてか、次々と新しい部門を任せてもらえ、いよいよ肉部門も。そこでは、前の店でまかないを作って火入れの勉強した経験が役立ちました。一年経ったころ、スーシェフになることを提案されたのですが、自分はまだ未熟だということでお断りし、肉部門と魚部門のシェフをそれぞれ一年してから引き受けました。
断る勇気を持つこと。簡単そうでなかなかできないことである。2011年にスーシェフの一人となったが、もう一人のスーシェフとの温度差を感じずにはいられなかった。シェフ不在のときにミスは許されない。守ろうと必死で「風船みたいにパンッと割れてしまいそうなくらいいっぱいいっぱい」だったという。サービス担当とぶつかり合うことも多々あったそうだ。こうした神崎シェフの努力の甲斐もあり、2012年にミラズールは2つ星となる。世界のレストランランキングでも上位に食い込み、「貢献できた、とほっとしました。」と神崎シェフは笑顔を見せる。そして2014年、パリへとやって来る。
マウロシェフが南アメリカに進出予定で、私はそちらに参画するつもりだったんですが、最後の最後に話が流れてしまって。それで行き着いたのが、彼のつながりで紹介してもらったパリ7区のレストラン。でも私のやりたいものとは少し違ったんです。しばらくして、そこと同じオーナーが経営するClandeのシェフのあとを、ミラズール時代から仕事もプライベートも一緒のマルセロと共に名前を現在のVirtusに変え引き継ぐことになりました。2人でシェフをやりつつ、経営者ではないけれど、経営者のつもりで原価率も人件費も考えて一年やってきて、数字として結果が出せていると感じます。実は前のレストランでは星つきレストランのノリで厳しくしすぎて自分たち以外全員が辞めてしまったことがあり、人のマネジメントの難しさを痛感しているので、その経験も含め、すべてを次につなげていきたいですね。
6月にはイタリアで250人に、9月にはパリで600人に料理を振る舞うイベントにも参加しました。昔の私ならリスクを考えすぎて絶対に断るイベントですが、新しいことをしてみようと思って。発注、仕込み、盛りつけもふだんとは違うので大変でしたが、とても有意義な経験でした。ミラズール時代、マウロシェフの海外イベントに同行したり、多くの方々を紹介してもらえたおかげで世界的なイベントにも声をかけていただけるのがありがたいです。そんな中で会う女性シェフは、子持ちでも活躍されている方が多くて・・・、子育てを通じて世界が広がるおかげで料理にもますますの幅が出ると思いますし、彼女たちの姿は見ていていい刺激になります。
Virtusは(取材直後の)2017年11月に移転リニューアルオープンし、新しいスタートを切っている。世界4位のタイトルを持つソムリエのパズさんは新店ではコンサルティングのみの参加だが、それ以外のチームはそのまま移動。さらに新しいメンバーも加わり、ますます勢いを増している。また、神崎シェフとマルセロシェフも経営者として加わるための手続き中であり、ついにオーナーシェフとなる日も近づいてきた。

人生、後悔するかしないかは自分次第。決めたことには100%の力で行くこと、あきらめないでやり続けることが大切だと思います。
どんな経験にも精一杯取り組んで次に生かし、どんなときも周りの人に感謝を忘れず、常に全力でひたむきに進む姿はまぶしい。女性らしいしなやかさと本当の強さを兼ね備えた神崎シェフの今後から目が離せそうもない。
取材: 内田ちはる