Magazine

海外で料理人として活躍する方の素顔を
皆様にお届けします

シェフの肖像 (vol.7)

L’INCONNU(ランコニュ)
オーナーシェフ 檜垣 浩二氏

パリでイタリア料理のレストランを開いた日本人がいる。和食、イタリアンの修行を経たのちに渡仏、パリでは「Passage 53」(二つ星)のスーシェフを5年半にわたって務めた檜垣浩二(38歳)である。フランスのイタリアンといえば、ピザ、パスタという家庭的な一品ものがほとんどの中、檜垣シェフはガストロノミーのコース料理で勝負する。「L’INCONNU(未知なるもの)」という名のレストランで、今まで知らなかった、繊細な味わいのイタリアンに感動するフランス人が後を絶たない。
僕は、自然に囲まれた高知の四万十川の近くで生まれ育ちました。夏にはおにぎりを持って川遊びに出かけ、そこで獲った川エビや魚を焼いて食べるという毎日でした。祖母は魚売り、祖父は船大工だったこともあり、祖父の船に乗って釣りにもよく出かけました。また、母は料理上手で、僕はそんな母の横についてよく手伝いをしていました。家族が喜んでくれるのがうれしかったんです。これらの環境のおかげで小さなころから食材とふれ合える機会は多かったし、料理をすることも大好きでしたね。
中卒で料理専門学校への進学を考えたが、両親から高校は出ておいたほうがいいとのアドバイスを受け、高校に進学。卒業後には、お父さまのつながりで割烹料亭「花外楼」で働くことになり、大阪に出る。創業明治8年、200年以上も続く老舗である。
当時の僕はまだ若くて日本料理の良さがあまり分からなかったし、想像を絶する厳しさにめげそうになり、何度も辞めようかと迷いました。それでもなんとか踏ん張っていたある日、友人と食べに行ったパスタが美味しくて。それからは、有名シェフのレシピ本を買って再現したり、まかないで作ったり。みんながそれを褒めてくれるんです。それで、どんどんイタリアンにはまっていきました。2年経ったころでしょうか、食べに行ったイタリア人経営のレストランの料理の味にいたく感動してしまって。その場で直談判し、翌日には面接、さらにその翌日からはそこで働くことになりました。21歳のときですね。飾り気のない素朴なイタリアンに魅せられ、仕事はとにかく楽しかったです。ただ、日本料理出身で厳しい世界を知っていた僕は、しばらくしてこの「楽しい、ノリがいい」環境に不安を感じるようになりました。ちょうどそのころ、同じ店のイタリア帰りの先輩が再びイタリアに行くとのことで、「僕も行きたい!」と。先輩を頼りに奥さんと一緒にヴェネチアへ行き、無給でレストラン研修をさせてもらいました。言葉はもちろん通じないけれど、日々新鮮で楽しい3ヶ月間でした。イタリアはすごく好きですね。人はいい加減だけど(笑)、料理もワインもとてもいい。イタリアに残りかったのですが、ビザがないので仕方なく帰国しました。
檜垣シェフのフットワークの良さ、行動力には驚かされる。直感に素直に、ダイナミックに。帰国後は東京へ出て、「カノビアーノ」代官山店に2年勤務。その後、24歳で京都店の副料理長、26歳で同じく大阪・江坂店の料理長を任され、そこで4年。着実にイタリア料理の実績を積んでいった。
ある日、(当時)出張料理をしているパリの佐藤伸一シェフのことを知りました。すごい人がいるもんだなぁと。その後、佐藤シェフが「Passage 53」をオープンしたことを知り、日本から電話をかけたんです。見ず知らずの僕をぞんざいに扱うことなく対応してくれ、履歴書を送ったのちに採用が決まりました。2009年、ワーキングホリデーでの渡仏です。フレンチではなく「佐藤シェフの料理」と思って入りました。シェフの他には、パリで料理を始めたばかりの男の子、経験の浅いパティシエの女の子のみで大変でした。シェフの妥協しない姿勢、そこにすべての仕事がつまっていて、学ぶことは多かったですね。
2つ星を獲得するなど檜垣シェフのレストランへの貢献度は大きく、ワーキングホリデー後には労働許可証の取得をしてもらえた。独立のことは常に頭に入れて動いていた。「いつかイタリアンで独立したい」という話は佐藤シェフにしていて、ちょくちょく相談にものってもらっていたという。だが 、独立への道はうまくいかない日が続いた。ところが35歳のある日、ふと携帯電話を見たときに『35歳の決断』という文字が目に入り、今しかない、と気持ちを新たに奮起する。
当初は共同出資も考えたのですが、小さくてもいいので自分たちだけでやろうと夫婦で会社を設立しました。もちろん十分な予算はないので店も完璧にはできない、でも少しずつ整えていけばいい。これは「Passage 53」で間近で見て来たことで、僕も同じようにやってみよう、と。物件は40ほど見ましたが、どこもダメ。いいと思っていたこの場所も、もともとは向かいの日本料理店「あい田」さんが買う予定をされていたんです。けれども話し合いの結果、相田さんから僕ならいいと言ってもらえて。ところが、オーナーが話を二転三転させるものだから、結局はそれから一年ほどかかりました。予算がないので、工事も3週間かけて自分で。朝8時に家を出て、音の出ないペンキ塗りを夜にするなど、22時や23時まで毎日。ペンキだらけの僕がオープンするレストランのオーナーシェフ本人だと知った通行人はみんなびっくりでしたね(笑)。

2015年11月末、いよいよ「L’INCONNU」オープン。最初のお客さんは、当時住んでいた18区のアパルトマンの隣人たち10人だった。フランス人の温かさにふれた出来事だった。しかし、ふと疑問に思ったことがある。なぜイタリアではなくパリでイタリア料理なのか。
僕はイタリアが本当に好きなので、イタリアでレストランを開いてもそこにいるというだけで満足してしまうだろう、と。それなら、実際に訪れてみて個人的にはいい印象のなかったパリで、でも保守的なイタリアとは違ってグローバルなフランスで、僕なりのイタリアを表現しようと思ったのです。たとえば、昼も夜も手打ちパスタを作っていますが、イタリアとは違って、コースでのパスタは最後に〆として出します。途中で出すとワインとのつながりも良くないし、食後感をよりイタリアンにしたい思いもあって。
檜垣シェフの強みは、どんな環境に置かれてもブレないところにあるのだろう。自身のフィルターを通して「自分のイタリアン」を提案し続けている。
自分たちの料理をより知ってもらうために、日々、さらなる高みを目指しています。少人数でやっているのでスタッフの疲れも出る。本当によくやってくれている。だからこそ、ゴーミヨの賞などのように、結果を出して精神的な部分での恩返しをして、また皆の新しいモチベーションにつなげたいと思っています。この仕事は本当にキツイ、やめたほうがいい(笑)。でもその分、喜びもとても大きいです。これからこの世界を目指す皆さんも、やると決めたら腹をくくって初心を貫き通し、とことんがんばってほしいですね。

取材: 内田ちはる
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シェフの肖像 (vol.7)

L’INCONNU(ランコニュ)
オーナーシェフ 檜垣 浩二氏

パリでイタリア料理のレストランを開いた日本人がいる。和食、イタリアンの修行を経たのちに渡仏、パリでは「Passage 53」(二つ星)のスーシェフを5年半にわたって務めた檜垣浩二(38歳)である。フランスのイタリアンといえば、ピザ、パスタという家庭的な一品ものがほとんどの中、檜垣シェフはガストロノミーのコース料理で勝負する。「L’INCONNU(未知なるもの)」という名のレストランで、今まで知らなかった、繊細な味わいのイタリアンに感動するフランス人が後を絶たない。
僕は、自然に囲まれた高知の四万十川の近くで生まれ育ちました。夏にはおにぎりを持って川遊びに出かけ、そこで獲った川エビや魚を焼いて食べるという毎日でした。祖母は魚売り、祖父は船大工だったこともあり、祖父の船に乗って釣りにもよく出かけました。また、母は料理上手で、僕はそんな母の横についてよく手伝いをしていました。家族が喜んでくれるのがうれしかったんです。これらの環境のおかげで小さなころから食材とふれ合える機会は多かったし、料理をすることも大好きでしたね。
中卒で料理専門学校への進学を考えたが、両親から高校は出ておいたほうがいいとのアドバイスを受け、高校に進学。卒業後には、お父さまのつながりで割烹料亭「花外楼」で働くことになり、大阪に出る。創業明治8年、200年以上も続く老舗である。
当時の僕はまだ若くて日本料理の良さがあまり分からなかったし、想像を絶する厳しさにめげそうになり、何度も辞めようかと迷いました。それでもなんとか踏ん張っていたある日、友人と食べに行ったパスタが美味しくて。それからは、有名シェフのレシピ本を買って再現したり、まかないで作ったり。みんながそれを褒めてくれるんです。それで、どんどんイタリアンにはまっていきました。2年経ったころでしょうか、食べに行ったイタリア人経営のレストランの料理の味にいたく感動してしまって。その場で直談判し、翌日には面接、さらにその翌日からはそこで働くことになりました。21歳のときですね。飾り気のない素朴なイタリアンに魅せられ、仕事はとにかく楽しかったです。ただ、日本料理出身で厳しい世界を知っていた僕は、しばらくしてこの「楽しい、ノリがいい」環境に不安を感じるようになりました。ちょうどそのころ、同じ店のイタリア帰りの先輩が再びイタリアに行くとのことで、「僕も行きたい!」と。先輩を頼りに奥さんと一緒にヴェネチアへ行き、無給でレストラン研修をさせてもらいました。言葉はもちろん通じないけれど、日々新鮮で楽しい3ヶ月間でした。イタリアはすごく好きですね。人はいい加減だけど(笑)、料理もワインもとてもいい。イタリアに残りかったのですが、ビザがないので仕方なく帰国しました。
檜垣シェフのフットワークの良さ、行動力には驚かされる。直感に素直に、ダイナミックに。帰国後は東京へ出て、「カノビアーノ」代官山店に2年勤務。その後、24歳で京都店の副料理長、26歳で同じく大阪・江坂店の料理長を任され、そこで4年。着実にイタリア料理の実績を積んでいった。
ある日、(当時)出張料理をしているパリの佐藤伸一シェフのことを知りました。すごい人がいるもんだなぁと。その後、佐藤シェフが「Passage 53」をオープンしたことを知り、日本から電話をかけたんです。見ず知らずの僕をぞんざいに扱うことなく対応してくれ、履歴書を送ったのちに採用が決まりました。2009年、ワーキングホリデーでの渡仏です。フレンチではなく「佐藤シェフの料理」と思って入りました。シェフの他には、パリで料理を始めたばかりの男の子、経験の浅いパティシエの女の子のみで大変でした。シェフの妥協しない姿勢、そこにすべての仕事がつまっていて、学ぶことは多かったですね。
2つ星を獲得するなど檜垣シェフのレストランへの貢献度は大きく、ワーキングホリデー後には労働許可証の取得をしてもらえた。独立のことは常に頭に入れて動いていた。「いつかイタリアンで独立したい」という話は佐藤シェフにしていて、ちょくちょく相談にものってもらっていたという。だが 、独立への道はうまくいかない日が続いた。ところが35歳のある日、ふと携帯電話を見たときに『35歳の決断』という文字が目に入り、今しかない、と気持ちを新たに奮起する。
当初は共同出資も考えたのですが、小さくてもいいので自分たちだけでやろうと夫婦で会社を設立しました。もちろん十分な予算はないので店も完璧にはできない、でも少しずつ整えていけばいい。これは「Passage 53」で間近で見て来たことで、僕も同じようにやってみよう、と。物件は40ほど見ましたが、どこもダメ。いいと思っていたこの場所も、もともとは向かいの日本料理店「あい田」さんが買う予定をされていたんです。けれども話し合いの結果、相田さんから僕ならいいと言ってもらえて。ところが、オーナーが話を二転三転させるものだから、結局はそれから一年ほどかかりました。予算がないので、工事も3週間かけて自分で。朝8時に家を出て、音の出ないペンキ塗りを夜にするなど、22時や23時まで毎日。ペンキだらけの僕がオープンするレストランのオーナーシェフ本人だと知った通行人はみんなびっくりでしたね(笑)。

2015年11月末、いよいよ「L’INCONNU」オープン。最初のお客さんは、当時住んでいた18区のアパルトマンの隣人たち10人だった。フランス人の温かさにふれた出来事だった。しかし、ふと疑問に思ったことがある。なぜイタリアではなくパリでイタリア料理なのか。
僕はイタリアが本当に好きなので、イタリアでレストランを開いてもそこにいるというだけで満足してしまうだろう、と。それなら、実際に訪れてみて個人的にはいい印象のなかったパリで、でも保守的なイタリアとは違ってグローバルなフランスで、僕なりのイタリアを表現しようと思ったのです。たとえば、昼も夜も手打ちパスタを作っていますが、イタリアとは違って、コースでのパスタは最後に〆として出します。途中で出すとワインとのつながりも良くないし、食後感をよりイタリアンにしたい思いもあって。
檜垣シェフの強みは、どんな環境に置かれてもブレないところにあるのだろう。自身のフィルターを通して「自分のイタリアン」を提案し続けている。
自分たちの料理をより知ってもらうために、日々、さらなる高みを目指しています。少人数でやっているのでスタッフの疲れも出る。本当によくやってくれている。だからこそ、ゴーミヨの賞などのように、結果を出して精神的な部分での恩返しをして、また皆の新しいモチベーションにつなげたいと思っています。この仕事は本当にキツイ、やめたほうがいい(笑)。でもその分、喜びもとても大きいです。これからこの世界を目指す皆さんも、やると決めたら腹をくくって初心を貫き通し、とことんがんばってほしいですね。

取材: 内田ちはる