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シェフの肖像 (vol.4)

CROWN BAR(クラウンバー)
シェフ 渥美創太氏

フランス・パリのレストラン界を圧巻するひとり、渥美創太。31歳の若さで、その存在感はとてつもなく大きい。プロのスノーボーダーを目指していたが、大怪我で悔しくも断念。そして選んだのは料理の世界だった。初めてフランスに渡ったのは19歳、3つ星「メゾン・トロワグロ」、「ステラマリス」(2013年閉店)などを経て、26歳で「ヴィヴァン・ターブル」のシェフに就任。
その後、11区の大人気店「クラウンバー」のシェフに抜擢されてから3年が経とうとしている。
小さなころからプロのスノーボーダーになりたかったんですが、高3のときに大骨折をしてあきらめざるを得なくなりました。美容師、建築家などの選択肢もあった中、僕が選んだのは料理人。辻調理師専門学校へ入学し、19歳でフランス校へ行きました。

半年の実習後の「メゾン・トロワグロ」(3つ星)の研修では、下処理くらいしかやらせてもらえなかったけれど、とにかく楽しくて。学校が一人ずつ研修先に学生を送るんですが、途中で研修をやめて帰る人もいる中、本来なら研修後には帰国するところを、僕は学生ビザを自分で更新してまでトロワグロに、そしてフランスに残りたいと思ったんです。研修先がトロワグロ以外のところだったら、今の僕はフランスにいないかもしれない。料理人にすらなっていないかもしれない。

言葉の問題はあったが、スタッフ全員でテーブルを囲んで食べるまかない、休日の仕事仲間とのサッカーなどを通してフランス生活になじんでいくのは早く、語学も上達していった。毎日が楽しくて仕方がなく、変な気の遣い方をしなくてもいいフランスの人間関係もしっくりきた。渥美シェフにとっては、フランスで生活することが実に自然なことだったという。
学生ビザの更新が無理だと言われたときに、まだフランスでがんばりたいという僕に声をかけてくれたのは、パリの「ステラマリス」オーナーの吉野シェフでした。
おかげで労働許可証が取得でき、『フランス人よりフランス料理を作る』吉野シェフのもとで、クラシックなフランス料理の基礎を学びました。そのときはまだあまり稼ぎもよくなかったので、家賃100ユーロ(現在レートで約12,000円)のシャワーとトイレ共同の、ベッドひとつでいっぱいになるようなとても小さなステュディオに住んでいました。高級地区なんですが、僕の家への入り口は建物のごみ箱置き場の裏(笑)。おそらく昔は使用人が住んでいたところだと思います。でも、朝早くから夜遅くまで仕事をして、帰って寝るだけの場所だったので特に不満もありませんでした。

約3年後、「ジョエル・ロブション」のラボラトワールに移る。メンバーは、当時ロブション氏の右腕だったエリック・フレション氏含む2人と渥美シェフ、そしてロブション氏のみ。メニュー開発、商品開発などの他、世界中にレストランを持つロブション氏の新しい料理を伝えるために、世界各国に出張で出かけた。
ニューヨーク、香港、マカオ・・・、空港に到着すれば一人一台のリムジンが待っていて高級ホテルまで移動するなど、次元の違う華やかな世界に触れた。ロブション時代にさまざまな世界を見ることができたことは、人生の糧になっているという。
ロブションのラボラトワールに約1年半、それから、高田賢三氏の長年の専属料理人だった中山豊光シェフに声をかけていただき、「TOYO」のオープニングスタッフとして働きました。

1年半ほど経ったころに「ヴィヴァン・ターブル」のオーナーであるピエール・ジャンクー氏が食べにきて、シェフとして働かないかと誘ってくれて。中山シェフは本当にいい人で、シェフをやってみたいという僕の思いを知って、「行っておいで。」と気持ちよく送り出してくれました。感謝しています。

こうしてシェフとしてのスタートを切りました。僕に自然派ワインを好きになるきっかけをくれたのはピエールで、また、いろんな生産者と引き合わせてくれたのも彼。食材を生かしたナチュラルでシンプルな料理は実は一番難しいと思うんですが、彼が食材を触るとおいしくなる、というくらいの人で。ガストロノミーではない、ナチュラルな料理の魅力を教えてもらいました。僕の料理への考え方を変えた人です。

約2年後にピエールから別のオーナーに変わることになり、僕はそのタイミングで辞めました。そのあと「サチュルヌ」のオーナーであるスヴェン・シャルティエ氏の誘いがあって、彼が買い取ったばかりの「クラウンバー」のシェフをすることになったんです。
一世紀以上前からある老舗「クラウンバー」は、内装はそのまま、渥美シェフの料理で2014年5月にリニューアルオープン。瞬く間に超人気店となり、特に夜は予約困難なほどに。2015年にはレストランガイド「ル・フーディング」で最優秀ビストロ賞に輝き、話題をさらった。
ありがたいことに、スヴェンには好きにやっていいと言われています。バーなのでその雰囲気を壊さないで、おつまみのように食べられて、かつクオリティーが高いもの。おいしいものを出すために食材にはこだわっていると自負できます。たとえば、野菜はブルターニュ地方で露地栽培を行っているアニー・ベルタンさんから、というふうに、自分で確かめて納得のいくものしか使わない。テラス席を入れて45席、夜は2回転半くらいですが、厨房は3人なので忙しい。でも本当に楽しいです。

つらいと思いながら料理はしたくないし、してもらいたくない。だから「つらいくらいなら辞めろ。」と言ってしまう。すると本当に辞めちゃうんです(苦笑)。SNSなどを通して、うちで働きたいと日本から直接コンタクトを取ってきてくれる料理人もいますが、楽しんで料理できるような人だとうれしいですね。

何でも楽しんでしまうという渥美シェフ。料理の確かな腕だけではなく、このポジティブさが周りの人々を惹きつけ、常にチャンスを運んでくるのだろう。
今後のことはどのように考えているのだろうか。
まだはっきりとは分かりませんが、クラウンバーはあと1年くらいかな?その後は、同じくスヴェンと組むかもしれないし、違うメンバーと組むかもしれませんが、たとえば20区あたりの一軒家を改装して、40席くらいの新しいジャンルの料理を出す店をしたい。

僕の奥さんがアート系の仕事をしている関係で、アーティストと遊ぶ機会がよくあります。意外にも食には興味のない人が多く、鴨肉を食べて牛肉かというような人もいる(笑)。そういう人たちも喜ばせたい。食の愉しみを知ってもらいたい。彼らと話していると新しい感覚が生まれてくるので、それを料理に活かしたいですね。いまはインスタなどもあって、人の真似なんて簡単にできる。でもそうじゃなくて、自分でしっかり考えて、自分から出てくるもので勝負し続けていきたいと思っています。
取材: 内田ちはる

シェフの肖像 (vol.4)

CROWN BAR(クラウンバー)
シェフ 渥美創太氏

フランス・パリのレストラン界を圧巻するひとり、渥美創太。31歳の若さで、その存在感はとてつもなく大きい。プロのスノーボーダーを目指していたが、大怪我で悔しくも断念。そして選んだのは料理の世界だった。初めてフランスに渡ったのは19歳、3つ星「メゾン・トロワグロ」、「ステラマリス」(2013年閉店)などを経て、26歳で「ヴィヴァン・ターブル」のシェフに就任。
その後、11区の大人気店「クラウンバー」のシェフに抜擢されてから3年が経とうとしている。
小さなころからプロのスノーボーダーになりたかったんですが、高3のときに大骨折をしてあきらめざるを得なくなりました。美容師、建築家などの選択肢もあった中、僕が選んだのは料理人。辻調理師専門学校へ入学し、19歳でフランス校へ行きました。

半年の実習後の「メゾン・トロワグロ」(3つ星)の研修では、下処理くらいしかやらせてもらえなかったけれど、とにかく楽しくて。学校が一人ずつ研修先に学生を送るんですが、途中で研修をやめて帰る人もいる中、本来なら研修後には帰国するところを、僕は学生ビザを自分で更新してまでトロワグロに、そしてフランスに残りたいと思ったんです。研修先がトロワグロ以外のところだったら、今の僕はフランスにいないかもしれない。料理人にすらなっていないかもしれない。

言葉の問題はあったが、スタッフ全員でテーブルを囲んで食べるまかない、休日の仕事仲間とのサッカーなどを通してフランス生活になじんでいくのは早く、語学も上達していった。毎日が楽しくて仕方がなく、変な気の遣い方をしなくてもいいフランスの人間関係もしっくりきた。渥美シェフにとっては、フランスで生活することが実に自然なことだったという。
学生ビザの更新が無理だと言われたときに、まだフランスでがんばりたいという僕に声をかけてくれたのは、パリの「ステラマリス」オーナーの吉野シェフでした。
おかげで労働許可証が取得でき、『フランス人よりフランス料理を作る』吉野シェフのもとで、クラシックなフランス料理の基礎を学びました。そのときはまだあまり稼ぎもよくなかったので、家賃100ユーロ(現在レートで約12,000円)のシャワーとトイレ共同の、ベッドひとつでいっぱいになるようなとても小さなステュディオに住んでいました。高級地区なんですが、僕の家への入り口は建物のごみ箱置き場の裏(笑)。おそらく昔は使用人が住んでいたところだと思います。でも、朝早くから夜遅くまで仕事をして、帰って寝るだけの場所だったので特に不満もありませんでした。

約3年後、「ジョエル・ロブション」のラボラトワールに移る。メンバーは、当時ロブション氏の右腕だったエリック・フレション氏含む2人と渥美シェフ、そしてロブション氏のみ。メニュー開発、商品開発などの他、世界中にレストランを持つロブション氏の新しい料理を伝えるために、世界各国に出張で出かけた。
ニューヨーク、香港、マカオ・・・、空港に到着すれば一人一台のリムジンが待っていて高級ホテルまで移動するなど、次元の違う華やかな世界に触れた。ロブション時代にさまざまな世界を見ることができたことは、人生の糧になっているという。
ロブションのラボラトワールに約1年半、それから、高田賢三氏の長年の専属料理人だった中山豊光シェフに声をかけていただき、「TOYO」のオープニングスタッフとして働きました。

1年半ほど経ったころに「ヴィヴァン・ターブル」のオーナーであるピエール・ジャンクー氏が食べにきて、シェフとして働かないかと誘ってくれて。中山シェフは本当にいい人で、シェフをやってみたいという僕の思いを知って、「行っておいで。」と気持ちよく送り出してくれました。感謝しています。

こうしてシェフとしてのスタートを切りました。僕に自然派ワインを好きになるきっかけをくれたのはピエールで、また、いろんな生産者と引き合わせてくれたのも彼。食材を生かしたナチュラルでシンプルな料理は実は一番難しいと思うんですが、彼が食材を触るとおいしくなる、というくらいの人で。ガストロノミーではない、ナチュラルな料理の魅力を教えてもらいました。僕の料理への考え方を変えた人です。

約2年後にピエールから別のオーナーに変わることになり、僕はそのタイミングで辞めました。そのあと「サチュルヌ」のオーナーであるスヴェン・シャルティエ氏の誘いがあって、彼が買い取ったばかりの「クラウンバー」のシェフをすることになったんです。
一世紀以上前からある老舗「クラウンバー」は、内装はそのまま、渥美シェフの料理で2014年5月にリニューアルオープン。瞬く間に超人気店となり、特に夜は予約困難なほどに。2015年にはレストランガイド「ル・フーディング」で最優秀ビストロ賞に輝き、話題をさらった。
ありがたいことに、スヴェンには好きにやっていいと言われています。バーなのでその雰囲気を壊さないで、おつまみのように食べられて、かつクオリティーが高いもの。おいしいものを出すために食材にはこだわっていると自負できます。たとえば、野菜はブルターニュ地方で露地栽培を行っているアニー・ベルタンさんから、というふうに、自分で確かめて納得のいくものしか使わない。テラス席を入れて45席、夜は2回転半くらいですが、厨房は3人なので忙しい。でも本当に楽しいです。

つらいと思いながら料理はしたくないし、してもらいたくない。だから「つらいくらいなら辞めろ。」と言ってしまう。すると本当に辞めちゃうんです(苦笑)。SNSなどを通して、うちで働きたいと日本から直接コンタクトを取ってきてくれる料理人もいますが、楽しんで料理できるような人だとうれしいですね。

何でも楽しんでしまうという渥美シェフ。料理の確かな腕だけではなく、このポジティブさが周りの人々を惹きつけ、常にチャンスを運んでくるのだろう。
今後のことはどのように考えているのだろうか。
まだはっきりとは分かりませんが、クラウンバーはあと1年くらいかな?その後は、同じくスヴェンと組むかもしれないし、違うメンバーと組むかもしれませんが、たとえば20区あたりの一軒家を改装して、40席くらいの新しいジャンルの料理を出す店をしたい。

僕の奥さんがアート系の仕事をしている関係で、アーティストと遊ぶ機会がよくあります。意外にも食には興味のない人が多く、鴨肉を食べて牛肉かというような人もいる(笑)。そういう人たちも喜ばせたい。食の愉しみを知ってもらいたい。彼らと話していると新しい感覚が生まれてくるので、それを料理に活かしたいですね。いまはインスタなどもあって、人の真似なんて簡単にできる。でもそうじゃなくて、自分でしっかり考えて、自分から出てくるもので勝負し続けていきたいと思っています。
取材: 内田ちはる